説教要旨
金曜日の夕方にイエス様は十字架から取り降ろさ
れ、安息日になる前に慌ただしく墓に納められた。
女たちは遺体に塗る香料を買い、安息日明けに
丁寧に葬ろうと、夜明けを待たずマグダラのマリア
が墓にやって来た。すると墓の入り口の石の蓋が
脇に転がっていて、墓の口がポッカリ開いていた。
マリアは弟子たちの所に走って、誰かが主の遺体
を持ち去った、と告げた。ペテロともう一人の弟子
(多分ヨハネ)が走ってきて確認する。「信じた」と
は、単に遺体が無くなった事を「信じた」のである。
イエス様が予告していたメシアの復活の御言葉を
誰も理解していなかった(詩16:10)。 彼らはこの
事態を理解できないまま、引き上げて行った。
しかしマリアは墓の前から動くこともできずにいた。
十字架の上で絶命され、墓に収められたイエスを
確かに見た。そして安息日が終わったら、香料を
十分に塗り、遺体を整えて葬りたかった。
それで夜明け前の暗い道をやって来たのだった。
遺体でもいい、イエス様に会いたかった。しかし
墓に来てみると何ということか、墓は空だった。
イエス様の思い出のよすがとなるべき亡骸はどこ
に行ってしまったのか。心に穴が開いてしまった
ように、真っ暗で何も考えられなかった。
ふと、もう一度墓の中を覗くと、白い衣を着た2人
のみ使いが見えた。その時、後ろに人の気配がし
て振り向くと人が立っていて、「何故泣いているの
ですか」との声。マリアは管理人だと思って、「あの
方をどこへ運んだのですか?」と尋ねた。
イエスは言われた「マリア。」・・・はっとした。自分
を呼んでくれたのは慕わしいイエス様の声だった。
他の節のマリアはギリシア語だが、この「マリア。」
は、日常会話に使われていたアラム語で、イエス
様がマリアに呼びかけている呼び声を表している。
マリアはイエス様が自分に呼びかける、その愛情
を込めた声に反応して目が開かれたのである。
懐かしい声に思わず「ラボニ」先生!と縋りついた。
彼女はイエス様が「私は復活する」(16:16)、と言
っておられたのに、信じていなかったことをどんな
にか悔やんだことでしょう。 復活した主は私たち
の名前をも一人一人呼んでくださる。主が復活さ
れたことは私たちの復活の約束です。
(Tコリント15:20〜)。
主のみ声に聞き従っていきましょう。
新規:2020/4/11
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