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2020年 11月22日
主日礼拝

説教
ヨハネの福音書 9章 1〜12節

9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
9:6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
9:7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
9:8 近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」
9:9 ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
9:10 そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」
9:11 彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
9:12 彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。

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説教要旨

イエス様と弟子たちは、道端に生まれつき目の見えない
人がいるのに出会った。弟子たちは、彼が盲目になった
のはだれの罪の為か、本人か、親か、と尋ねた。一般に
そう思う人がいるが、聖書には、子は親の罪の責任を負
うことはない、と書かれている。イエス様は本人の罪でも、
親の罪でもない。神様の業が現れるためだと言われた。
?
この盲人はイエス様に触れていただいて癒された。即ち
神の業が現れたと言える。しかし、ほかの障碍者一般に
ついてそう言えるだろうか。私の周囲の、家族に障碍者
を持つ方々は、一様に、障碍を通して目が開かれ、神様
の深い恵みを知ったことを証しておられる。口に出せない
苦労もあったであろうとは思うが、信仰によって勝利を与
えられて、積極的な生き方に変えられている事が見える。
?
障碍者本人も、障碍を「これが私の個性なのだ」と受け止
めて、積極的に生きておられる方があります。その障碍を
受けとめる信仰によって勝利が与えられるのだと思います。
主はパウロに、「私の恵みはあなたに十分である。私の力
は弱さの内に完全に表れるからである。」と言われました。
?
障碍者、健常者を問わずキリストによって変えられる時に
人は新しい命を与えられ、神様の恵みの内を歩むように
されます。イエス 様は、私を遣わされた方のわざを昼の
内に行わなければならない、と言われました。与えられた
めぐみの道を、光の中を歩みましょう。

Since 2020/11/
16 Updated 2020/11/22