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2021年 1月10日
主日礼拝

説教
ヨハネの福音書9章13-34

9:13 人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
9:14 イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。
9:15 こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。
9:16 すると、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言った。ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。
9:17 そこで、彼らは再び、目の見えなかった人に言った。「おまえは、あの人についてどう思うか。あの人に目を開けてもらったのだから。」彼は「あの方は預言者です」と答えた。
9:18 ユダヤ人たちはこの人について、目が見えなかったのに見えるようになったことを信じず、ついには、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
9:19 尋ねた。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか。」
9:20 そこで、両親は答えた。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。
9:21 しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」
9:22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。
9:23 そのために彼の両親は、「もう大人ですから、息子に聞いてください」と言ったのである。
9:24 そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
9:26 彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」
9:27 彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
9:28 彼らは彼をののしって言った。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。
9:29 神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」
9:30 その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。
9:31 私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。
9:32 盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。
9:33 あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」
9:34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。

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当日の説教
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説教要旨

生まれつきの盲人の目が開かれた。彼の目の前
にはこれまで見たことのない世界が輝いていた。
イエスによって目を癒されたこの人を周囲の人々
はパリサイ人のところに連れて行った。
この人は自分の目を開けてくれた人が誰だか、
まだはっきり知らないが、自分がかつては目が
見えなかった事と、その方が治してくれたことか
らその人を「預言者」だと述べる。
?
パリサイ人は、癒されたことより、その過程で
律法違反がなかったかどうかに関心があった。
生まれつきの盲人で癒された人など聞いたこと
もないが、当人が目の前にいる。強力な証拠は
否定しようもない事柄であったが、そんなはず
はない、どこかに仕掛けがあるはずだ、と生ま
れつき目が見えなかったという証言にまず疑い
を抱き、両親に問いただした。

ユダヤ人たちはイエス様の神性をまず否定し、
そこに辻褄を合わせるために、安息日を軽視
するイエスを罪人と言う。しかし「安息日を守
らないから正しい人でない」という意見は、
「神様が味方でなければ、つまり罪人にはこん
なことが出来るはずがない」という議論に勝
てない。盲人の目が開かれるという恵みは、
罪の中から出てくるはずがないからである。

今日でも神を否定して、聖書を受け入れない
人が多い。それは無神論という名前の宗教で
あり、裏付けのない信念、即ち迷信である。
両親も、自分の息子が盲目であったのをよく
知っているにもかかわらず、ユダヤ社会から
つまはじきにあうのを恐れて、無関係の立場
をとるが、この人の、「私は今見えるのです」
と言う証しは、イエス様にお会いして、益々
人々に主の恵みを輝かせることとなった。

Since 2021/1/4 Updated 2021/1/9