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2023年 6月11日
主日礼拝

説教
成長する信仰

ヘブル人への手紙 5:12~14

5:12 あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。
5:13 乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
5:14 固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。


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当日の説教


説教要旨


今日は「信仰が成長する時」について分かち合いたいと思います。私たちがクリスチャンになってから天国に行くまでの間、私たちの信仰が成長して深まるという話です。信仰の成長過程について聖書は何と教えているのか、そして、人生の旅の中で神様の導きによって体験する数多くのできごとが私たちをどのように成長させるのかを一緒に分かち合おうと思います。

1.まず、お話ししたいのはキリスト教の信仰が成長する信仰だということです。

他の宗教には成長するということがさほど重要ではありません。なぜなら、宗教というのは人間の考えから出てくるものだからです。それで多くの宗教は信仰の成長より人の願いをそのまま盛り込んでいます。

この世を愛する人々が作り出した宗教は、この世界で人生を満たそうとします。それがお金であれ、名誉であれ、何であれ、将来への不安と恐れを払い除けようとします。それで占いをしたり、祝日に神社を訪ねて一年の無事を祈ったり、太陽と月に、富と健康を祈ったりします。

また、他の宗教ではこの世のものではなく、人間以上のものを願い求めようとします。お金に対する欲深さを嫌い、人間関係の葛藤や病と災難に対する恐れの束縛から逃れたいという気持ちから生まれた宗教もあります。代表的な宗教は仏教です。

もちろんクリスチャンもそのために祈ります。しかし、クリスチャンの祈りは本質的に違います。信仰が成長すればするほど、私たちの祈りはこの世の願いにとどまるのではなく、神様のみ心にとどまる祈りをするようになるからです。

キリスト教の信仰は人間から生まれたものではありません。キリスト教の信仰はまことの神様から出るものです。それゆえに、世の中の宗教とは本質的に違います。信仰は深く成長していくにつれてイエス様に似ていき、神様のご性質にあずかるようになるため、私たちの祈りには神様に対する愛が満ちていき、神様の心とご計画のためにもっぱら祈るようになります。

2. 試練と鍛錬の中で成長した信仰は、善悪をわきまえて、善を選ぶようになります。

クリスチャンになって間もない頃は、恵みに満ちている時でさえ、まだ霊的に幼いため、肉の本能の赴くままに物事を選択することが多いです。 しかし、時間が経つにつれて神様との交わりが深まり、深まれば深まるほど、肉的な人生で罪を犯しながら生きる人生よりも、霊的に善を行いながら生きる人生の方が良い、ということを知るようになります。 結局のところ、信仰の成熟度は神様のものがもっと良いものと理解し、それを選択しながら生きて行くことができる有益なものです。

3.だとすれば、私たちはいつ、どのように成長するでしょうか。

1)神様を知るにつれて信仰は成長します。

キリスト教は神様との交わりが一方通行ではありません。また、真心を捧げ、その代価として祝福を受けるほかの宗教とも異なります。人格を持つ神様と人格的存在として創造された人間が互いに人格的関係を持っています。それで人が神様を知れば知るほど、神様がどれほど素晴らしいお方かを知るようになり、その方を心から愛し、依り頼むようになります。
それでは、どうすれば神様を知ることができるのでしょうか。神様は人が神様について理解できるところまでご自分について教えてくださいます。それを啓示と言います。まず神様が創造した万物に、神様について知る必要のある事がらを示されました。神秘的で偉大な自然を見ていると、自然にそれらをお造りなった方を考えるようになります。しかし何より神様が自分を正確に知らせて下さっているのがまさにこの聖書です。 この聖書を読んで黙想し、勉強し、暗唱し、お互いに聖書を分かち合う時、私たちは神様を知り、読めば読めるほど、さらに神様を知り、愛するようになります。

2)苦しい時間が信仰を成長させます。

何もキリスト教の信仰でなくても、世の中には苦難が人間を成長させる道具だと言われます。しかし全ての苦難が人間を成長させるわけではありません。むしろ、苦難を乗り越えても、通った過程が傷となり、良い影響よりも悪い影響を与えることもあります。それで、苦難が成熟ではなく毒になる場合もあります。ですから、キリスト教の信仰の中で神様が導かれる苦難を受けるのが良いでしょう。
あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。 [コリント人への手紙 第一 10:13]

神様の中で経験するようになる多くの試練は私たちが耐えるに値するもので、その苦難の時間を通じて神様は私たちに多くのものを変えて行って神様の美しい意味を成して行きます。

3)何も起こっていないときも、目には見えませんが、信仰は成長しています。

何も起こっていないときも目に見えませんが、信仰は成長しています。何も起こらないときとは、自分の置かれた状況が自分を満足させていないときです。切実な祈りに対する応答が実現しない状況が続くと望みも消え、ただ現実に埋もれていく時間が続くこともあります。何の変化もないように見えますが、そうした中でも神様は私たちを導いて働いておられます。そして、内面の変化と成熟が次第に進む時間となります。
外国語を学ぶのは本当に大変なことです。私もその大変さを感じております。高校生の時に、英語の先生が英語の勉強を諦める学生たちにこう話してくださったことがあります。「英語はまるで階段を上るように成長していくものだから、目に見える成長はない。それでも諦めずに勉強し続ければ、ある日、大きく成長している自分に気づくだろう…。」という話です。あの時の先生のことばを思い起こしながら日本語の勉強に励んでいます。
信仰の成長にもそのような時があります。長く支離滅裂な不満足の時間の中で、不平を言ったり愚痴を古馬したりしているうちに、不思議と感謝の心も生じたりします。そうしているうちに、ある瞬間、私たちは神様の恵みを知り、変わっていることに気がつきます。ダビデの逃亡生活がそうでした。モーセのメディアンの荒野における放棄と諦めの時間もそのような時間です。 しかし、時間が経ち、彼らは王として神の国をつくり、民族の指導者としてイスラエルの民をエジプトから脱出させ、約束の地へ導き入れました。 彼らは、その長くて退屈な時間に、自分の意思と欲望がかなう人生ではなく、神様のみこころがかなう過程を生きていく聖書の人物になりました。

4)出会いと交わりが信仰を成長させます。
人は一人で生きていける存在ではありません。アダムにはエバが与えられ、家庭という小さな共同体を与えました。そして旧約では、イスラエルという民族が神様を礼拝する民族という共同体をお与えてくださいました。そして、新約の時代を生きる私たちには、教会という信仰の共同体をお与えくださいました。ただ、一緒に1時間礼拝をしてから各自の生活に戻る、お互いのことを気に留とめない人々の集まりを教会とは言いません。
信仰が成長するということはどんなことですか。 エペソにある教会は教会の共同体の中でキリストを立てることだと述べています。

11. こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。12. それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。13. 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。14. こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、15. むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。[エペソ人への手紙 4:11~15]

色んな人が教会に来て、教会の様々な奉仕を担い、互いに自分の賜物を用いて仕え合います。そのように教会のメンバーの益になるために努力する共同体こそ教会なのです。そのような共同体の中では、まずキリストが建てられ、その中で私たちも信じるものと知るものにおいて、一つとなる完全な人間になり、成長していきます。

それでお互いに有益で影響を与える教会共同体になるのが良いでしょう。病気になり、病気になった時一緒に祈りながら涙を流してくれる教会のメンバーたちによって私たちは病気に対して、痛みに対して神様の前でもう一度勇気を出して心を落ち着かせられるように成長していきます。時には信仰の先輩からそういう時は、私はこうしてその大変な時期を乗り越えたという恵みを分かち合う中で、私たちは揺らぐ心を再び揺るぎないものとするものです。
それで、教会は建物ではなく、人々の単なる集まりでもなく、キリストの体が全うされましたし、その中で私も霊的な益を得るという信仰の成長を体験する、有機的な共同体なのです。

はじめはまだ神様について深く知らず、私たちの好き勝手気に生きようとする欲望に従って生きていたことでしょう。しかし神様を知り、神様についてさらに深く理解し、神様と交わりながら神様をいっそう愛するようになり、愛する神様のために生きることが自分にとってもっと良い人生だと知るようになります。

愛する子どものために、私が好きなことをあきらめたり、しなかったりしたことをするのです。 私たちが神様を愛する心が大きくなり深くなればなるほど、私たちは神様が望む人生を生きようと願いながら選択するようになります。 とても嬉しく自発的にこれが成長した信仰の姿なのです。

Since 2023/6/4 Updated 2023/6/11