○○
2023年 6月18日
主日礼拝

説教
皮の衣を作って着せられた

創世記 3:21~24

3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。
3:22 神である【主】はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
3:23 神である【主】は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。
3:24 こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。

♪
後日Up予定
当日の説教


説教要旨


1. 罪に関する話

先月から月に一度は聖書を創世記から話してみようと思っています。それで先月にはこの世を創造された神様についての話をしました。神様が作ったこの世界は人間のために用意してくださった神様の贈り物だと言いました。そして人間はその存在自体が神様の喜びです。

しかし、この人間が創世記3章では神様を命令に反して堕落することになります。結局、神様が施してくださったエデンの園というところから追い出されることになります。

創世記はこの世の起源と人間の罪という問題について根本的な話をしてくれています。 それで読んでいると、いろいろ疑問を抱くことがあります。「罪を犯さないように人間を造らればいいのに、なぜ罪を犯せる人間にしたのか。」 とか「善悪の知識の木は最初からなかったらよかったんじゃない。」のような非常に神学的で答えにくい質問です。 このすべてについて話したいですが、限られた時間だから最も重要ないくつかのことだけを話してみようと思います。

1) 善悪の知識の木

神様がエデンの園に創られたすべての実は食べることができますが、園の真ん中にある善悪の知識の木の実だけは食べないように命じられました。

16神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。17しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」. (創世記2:16〜17)

これは善悪の知識の木、そのものに何らか能力があったり、何か神秘的な秘密を含んでいるわけではありません。重要なことは、これを食べないように神様とアダムが約束をしたということが最も重要なことです。アダムは被造物であり創造された世界にいる存在ですが、神様はこの世を超越された方であり、この世を創られた方です。 創造された人間が神様のすべてを知ることは不可能です。存在自体が違うからです。そんな広大な神様をもっと記憶し、知ることができるようにするのは、まさにこの木に対する約束です。アダムとエバは、園の真ん中にあるこの木の実を見るたびに、神様の約束が記憶され、神様を尊重し愛する気持ちでその約束に従ったはずです。その約束を守ること自体が神様に対する賛美であり礼拝なのです。だからこの約束は人間を試すための罠のようなものではなく、神様と人間の間をつなぐ神様がくださった恵みと祝福なのです。だからこれを食べるということは神様との約束を破るということであり、神様を捨てるということと同じことです。ここから人間の罪というものが始まるのです。

それで聖書は罪ということを私たちが考えることとは違う意味を持つと教えています。それは神様から離れた人生そのものであり、神様がおられない人生を生きる人間の限界と境遇を言うことです。 だから単純に道徳的でないか、他人に迷惑をかけるとか法を破ることを言うことではありません。

2) 人間の選択の問題

それでは人間をその木の実を食べない選択が維持されるようにすればいいのではないかという質問もあります。ところが、そうなれば人間は自分で選ぶことのできないロボットのような存在になるでしょう。神様は人間自らが神様の約束を守ろうと努力し、その心に、心からの神様へのを愛を込めて神様の命令に従うことを望んでいます。

結局、罪というのは神様との関係です。人間は自らが罪を犯した時、その関係を破って神様を捨てる選択をしました。 しかし、最初から自発的にそのような考えをしたわけではありません。3章の冒頭に蛇が出てきます。この蛇が神様の約束を歪曲して話し、神様と人間の間を裂くことで蛇の誘惑に勝てなかった人間はそのような選択をするようになったのです。

今でもその時の蛇のようにサタンは目に見えませんが、私たちの心にささやいています。神様なしでこの世を生きるように嘘と誘惑を通じて騙し続けています。 これが聖書が語る罪の姿です。

2. 罪人に対した神様の恵み

このように人間は罪を犯して神様から離れることになりました。しかし、神様は人間を捨てませんでした。今日、読んでいる聖書のなかでアダムに見せてくださった神様の姿が、まさに神様が人間をどれほど愛し、恵みを与えてくださるかをよく示しています。

1) 神様はアダムを訪ねてきました。

蛇はエバに「善悪の知識の木の実を食べると目がひらかれて、神様のようになる」と誘惑しました。

4.すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。5.それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」

それで善悪の知識の木の実を食べたのですが、蛇の言葉とは違って自分たちの目は自分たちの裸であることを知ることになりました。

7.こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った

ところが、それは良い結果ではなく、自分たちの体に対して恥を感じる結果でした。神様が造ってくださった体、つまり自分を見る視線が罪によって歪曲されました。

それで神様と関係が切れた世の中の人々は、このような歪曲された自己認識によって愛されるほどの自分の存在自体で人生を生きるのではなく、何か代わりのもので自らの不足を満たそうと努力しながら生きることになります。

これを一番見せてくれるのが、最近の人たちになくてはならないSNSですね。
今の自分のありのままの姿よりはうまくいっているという幸せな私自身を見せてくれる道具ですが、実状はイチジクの木の葉をつづり合わせて腰の覆いを作って着るのと同じです。結局枯れてしまうイチジクの葉のように何も私を満たしてくれない虚しさだけがあるだけです。

まさにその時、神様は直接訪ねてきました。

8.そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。9.神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」10.彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。

風の吹く頃、神様は園を歩き回られました。アダムを探して呼びました。 しかしアダムとエバは神様の顔を避けて身を園の木の間に身を隠しました。神様が祝福を与えて自らを保護してくださる存在ではなく、避けたい恐れる存在になったということは悲しいことです。それでも神様はアダムを訪ねてきて呼びます。
神様はこのように私たちを訪ねて下さる方です。自分が裸であることを知って自らを恥ずかしく思う瞬間にも、神様を避けたい恐怖の瞬間にも神様は訪ねて来られます。神様は私たちが弱くて大変な瞬間にも私たちを訪ねて下さる神様です。探して、また探していて、その一人子イエス様を送って下さいました。私たちはいつも約束を破って神様から抜け出そうと努力しますが、その時さえも神様は訪ねてきてくださって私たちと共にいてくださる神様です。

2) 罪の結果も神様の恵みです。

神様はアダムに、「善悪の知識の木から食べるとき、必ず死ぬだろう」と言われました。 しかし、神様は人間が死を迎えるまでの人生を許されました。 また、以前は自然に生じた実を食べていたアダムに土地は木の実の代わりに茨とアザミを生えさせます。また、エバは子供を産んで出産する苦痛を持つようになりました。しかし、その場でまさに人間の人生を中断させず、むしろ人生を送れるようにされたのは神様がアダムとエバに与えた恵みです。難しい人生ですが、私たちに与えてくださった人生の中でも毎瞬間、神様は共におられて私たちの苦労を慰めて下さいます。出産の苦痛は大きいですが、子供を見た瞬間、そのすべての苦痛は喜びになります。アダムが神様の命令に従わない結果として、私たちは必ず死ぬことになりましたが、死の瞬間まで私たちの人生は毎時間意味があり、感謝するものばかりです。

3)神様は皮の衣を着せてくださいました。

21節、アダムとエバは自分たちの裸であることに気づき、イチジクの葉で腰の覆いを作りましたが、イチジクの葉はすぐに枯れるしかありません。これは神様を離れた私たちの人生をいくら他のもので満たそうとしても、それは根本的な解決にならないことをそのまま見せる場面です。

それで神様は21節の皮の衣を作ってアダムとエバに着せられました。

皮の衣というものを作るには、ある動物が死んでこそ、その皮で衣を作ることができます。そのため、この皮の衣のためにある動物が殺されたことが私たちは分かります。エデンから追い出される彼らに神様は皮の衣を着せられながら重要な約束をします。誰かの犠牲でこの罪と堕落の問題を解決するという約束です。また、神様は私たちを生きている間に導き、守ってくださるという約束です。その約束の内容は、まさに3章15節で蛇を呪いながらおっしゃった御言葉の中に具体的に出ています。

15.わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。

蛇の子孫はサタンです。女の子孫はイエス様です。サタンはこの地上に来られたイエス様を十字架に釘付けにして殺すことさえしますが、それはただかかとを打つのだけほどでした。イエス様は3日目に復活して死に勝っただけでなく、蛇の子孫であるサタンを審判することで彼の頭を打ち砕きました。

聖書の最初の始まりである創世記には、まさにこのような福音の内容が記録されています。この後、聖書は引き続きこの地に来られるイエス様を教え、話しています。アダムには皮の衣で、モーセには神様にささげる生け贄で、旧約時代の預言者にはメシアで、そして教会の時代である私たちには再び来られるイエス様で聖書は絶えずイエス様を証しし教えています。皮の衣は十字架にかけて苦しみを受けられたイエス様を教えているしるしです。

このように聖書を読むと福音が分かります。聖書の最初から最後まで神様が私たちをどのように愛していたかについての話です。別々に離れている古い伝説よせ集めのような話ではなく、私たちに向けた神様の真実の愛の物語です。


Since 2023/6/13 Updated 2023/6/18