○○
2023年 8月6日
主日礼拝

説教
再び来られるイエス様の約束

使徒の働き1:9~11

1:9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
1:10 イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた
1:11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」


車 孝振 (チャ ヒョ ジン)牧師

♪
当日の説教


説教要旨


韓国の男性は18歳になると軍隊に入隊します。私も20歳になった年に軍隊に行きました。今は18ヶ月ですが、私が入隊したころは26ヶ月でした。1998年3月に入隊して2000年5月に除隊しました。 26ヶ月の軍隊生活を一日ずつ計算してみると791日になります。入隊した初日、慌ただしくあちこち歩き回りながら軍隊生活に必要な物を受け取ったりして一日を過ごし寝床に着きます。そして翌日,目が覚めると、二つの事実に心が暗くなりました。一つ目は目を覚ましたところが、私の家ではないという事実です。そして二番目はまだ790日も残っているという事実でした。この感じは私一人だけのものではなく、その時、一緒に入隊したすべての隊員たちの気持ちでした。そして私と彼らが待ち望む日がありました。それは、790日後に訪れるであろう除隊の日でした。だからといって、790日間の時間がただ辛かったわけではありませんでした。先輩、後輩、同僚、軍人たちと一緒に目標を成し遂げる楽しさもありましたし、一日の日課が終わってからの休息の時間にそれなりの楽しみがありました。

その時は、ただ軍隊生活が終わる日を待っていましたが、今は私たちのイエス様が来られる日を待っています。イエス様が来られる日は私だけでなく、この地球上のすべての聖徒たちが待ち望んでいることでしょう。しかし、このような良い日を異端たちと新興宗教者たちによってゆがめられ、そのイメージが悪くなってしまいました。それでイエス様が来られる日、すなわち終末ということばを口に出すことさえ難しい世の中になりました。 しかし、私たちの主イエスは聖書に記録された通り、再び来られるでしょう。そしてその日は私たちに楽しさと喜びの日となることでしょう。だからこそ、私たちは終末を正しく理解し、きちんと待たなければなりません。そのためには、聖書が教えていただいている正しい終末についての理解が必要です。 驚くべきことは、異端たちもこのように終末を始めるということです。自分たちが聖書についてきちんと教えてくれるそうです。しかし結局は無理で非常識な内容になります。これをよく考えながら、今日のメッセージを分かち合いたいと思います。それでは、終末を私たちが待って記憶しなければならない理由についてみてまいりましょう。

1.終末を待ち望む理由

その前に、終末とは何でしょうか。 世の終わりが終末です。

御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。(マタイ24:14)

しかし、世の中が完全に終わるのではなく、イエス様がいらっしゃれば新しい世が始まります。そのため、終末は世の中の終わりではなく新しい始まりです。聖書はこの新しい日を約束し、私たちに希望を持ってこの地に生きるようにと教えています

多くの異端は、イエス様がいらっしゃる前に起きる様々な出来事を悪いように見せ、恐怖心を煽り、脅迫をする方式で信徒たちを抱き込み、彼らの財産を奪い取ろうとします。特に新天地という異端は、ヨハネの黙示録に出ている14万4千という数字の中に自分が入っていなければ救われないと騙し、献金と宗教生活を強要します。そして、その数が満ちれば世の中の終わりが来て、自分たちは14万4千の中に入っていて天国に行くと教えます。これにだまされた人は、日常生活も放棄したまま、伝道と誤った聖書の学びにすべての時間をつぎ込みます。ところが、10年前にすでに韓国の新天地信徒数が14万4千を超えてしまいました。だめだと固く信じていた新天地指導部は、とても慌てたそうです。 それで新天地指導部は、14万4千人だけが救われると告げ、その数の中に入ることができる試験を受けるとし、また自分たちの信徒たちに脅迫し新天地信徒たちを苦しめたそうです。彼らにとって終末は希望ではなく、戦いの末に勝ち取るべき目標になってしまいました。彼らにとって終末はイエス様を待ち望むことではなく、条件を満たすべき宿題のようなものになってしまいました。 終末が彼らには絶望になっています。これこそ異端が終末を悪用して自分たちの力と権力を享受する方式です。しかし、イエス様は終末を悲惨なものだと言いませんでした。 私たちが期待し、待ち望む日と教えて下さっています。

それで終末の重要な内容はあらゆる災難と滅びではなく、再びこられるイエス様です。この世が終わることが重要なのではなく、イエス様が再び来られることが重要なのです。イエス様は復活して昇天されました。 その時、弟子たちに昇天した姿のまま再びこの地に来ると約束しました それで私たちが終末だと思えば、すぐに再び来られるイエス様を考えなければなりません。

最も重要なことはイエス様が再び来られることです。彼がいらっしゃる日こそ終末で、最後の日なのです。それで、私たちが終末を待つ理由は次の通りです。
1)イエス様の約束だからです。

約束は一人するものではありません。約束は約束する相手がいます。私たちと約束した方はイエス様です。 イエスはまた来ると約束されました。そして、その約束は一方的ではないので、約束を交わした私たちは、再び来られるイエス様を期待して待つのです。

見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。(ヨハネの黙示録1章7節)

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。(IIペテロ3章10節)

ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。(ヤコブの手紙5章7節)

キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(ヘブル人への手紙9章28節)

あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。(コロサイ人への手紙3章4節)


2)イエス様を待つことが人生の希望になるからです

3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、4御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。5もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。(ヨハネの黙示録22章3-5節)

ウクライナの人々には、戦争が終わって平和が訪れることが望みです。今の時代を生きている私たちには、コロナが終わって日常を取り戻すことが望みです。誰かに会って自由に旅し、そうした平凡な日常が私たちの望みになっています。軍隊にいる時、26ヶ月がいつ終わるだろうかと、その日が早く来るのを待ちながら過ごしていました。しかし、そういう期待があったからこそ、厳しい訓練にも耐えられましたし、意味のある時間を過ごすこともできました。望むということ、また期待するということは、単純に今が嫌いだからその日を願うのではなく、希望の日があるからこそ、今を生きる力を得られるのです。

聖書の中で期待と希望を持って喜びを享受した人々がいます。ルカの福音書には2人の預言者が出てきます。一人はシメオンという人です。 シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望んでいました。預言者マラキがマラキ書で預言した後、400年もの間、神様から遣わされた預言は一人もいませんでした。その期間中、イスラエルの民はみな一同にメシアを待ち望んでいました。ほとんどの人々が政治的?経済的?個人的な利益を満たしてくれるメシアを待っていたとすれば、シメオンは聖書が預言したメシアを待ち望んでいました。イスラエルを慰め、罪から救ってくれる希望のメシアを待ち望んでいたのです。

また、アンナという女預言者は、夫と17年間暮らし、やもめになってから84年間神殿で奉仕し、105歳になりました。彼女も預言者たちが預言したメシアの訪れを待ちながら祈っていました。そして、その時、モーセの律法どおりにきよめの儀式をしに来た幼子イエス様に出会い、幼子イエス様がまさに自分たちが待っていたメシアであることを知るようになります。シメオンは預言の歌を歌い、アンナはイスラエルの救い(贖い)について話しました。

その2人にとって人生の希望はメシア、すなわちイエス様でした。しかし、イエス様に会うその日になるまでの日々は、希望に満ちていて、生きる理由になったはずです。このように健全な希望を持った人の人生は絶望の淵に喜び、一日一日が辛くても勝ち抜く力を受け、一日一にを大切にするようになります。

3)望みは単なる期待ではなく、実際に叶うことです。

私たちが待ち望んでいるイエス様の約束が実現しないものなら、私たちの望みと信仰は無縁なものになります。しかし、この約束は必ず成し遂げられます。すべての契約には契約書があるように、イエス様と私たちの約束にも契約書があります。この聖書こそがその契約書です。それゆえに、旧約(古くからの約束)と新約(新たな約束)と言うのです。また、保証人が存在するように、この約束を保証して成し遂げる聖霊様が私たちと共にいて、また来られるイエス様を信じられるよう、望みを抱かせます。それでは、私たちはどのように終末を待ち望めばいいのでしょうか。

2.終末を待つ私たちの姿勢(態度)

1)まず、この世のことに未練を持たずに生きなければなりません。
私たちは旅行者であり、帰るべき故国があります。天国に私たちの国籍があるからです。

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピへの手紙3章20節)

帰る家がある旅行者があちこち歩き回って欲張って自分のカバンを満たしません。ところが、 天国に帰る私たちのこの世の旅行にこれも買って入れてあれも買って入れたら、私たちが担いで通うかばんは荷物でいっぱいになり、移動するのが困難でしょう。私たちの信仰の旅路がこのようものなら、どれほど疲れるでしょうか。そして結局、私たちが天国に到着するその日、その多くの荷物を持って天国に入ることはできません。そのため、私たちはこの地に住んでいる間、欲を出して手に入れようとすることに未練を持って生きてはいけません。多くの財産に、権力、よりよい暮らし向きに対する欲と、ひいては円満な人間関係に対する欲も、いつかすべて手放して天国に入らなければなりません。

中国の秦の始皇帝は、天下を手にいれましたが、この世に多くの未練を持っていたために、永遠のいのちを欲しました。しかし、今この地に残されたのは、始皇帝ではなく、巨大な墓と多くの人々の無念の死と無念の涙でした。それでこの世のものに未練を置いて欲を出しても、旅人のような私たちには何の益にもならず、荷物だけが増えます。しかし、イエス様が来られる日を期待して望む聖徒の人生は、この地で安らかな人生となるでしょう。そして、結局はこの世よりもっと大切な私たちの主、イエス様に会うことになるでしょう。

2) それでも、この地で与えられた人生を一生懸命生きなければなりません。

イエス様が来られる前まで、人生に意味がないわけではありません。それに意味がないのなら、信じてすぐに天国に連れて行かなければならないでしょう。しかし、そうでないということは、まだこの世に残ってやるべきことがあることを意味します。この世の時間の中に残って成し遂げなければならない神様の御心が私たちにあります。それで、時間を通して与えられる人生にも価値があります。 それを生き抜くことこそ、神様が私たちにくださった祝福です。だからこそ、神様は私たちに教会をお与えになりました。完璧ではありませんが、教会は天国の姿をそのまま見せてくれる一種のモデルハウスのようなものです。しかし何よりこの世は神様が創造された神様のものです。 神様が私たちのためにくださった世の中です。私たちがサタンに騙されて、その嘘の奴隷になって絶望的な人生を送るしかありませんでした。それでこれを直してくださるためにイエス様が来られたのであり、この世を聖徒たちに再び任せておき、天国に戻られました。イエス様はそこで私たちが行くべき所を準備するとおっしゃいました。そしてまたいらっしゃる時には、また違う世界を私たちにもっとよくしてくださるでしょう。それゆえに、この地での生活を大事にしなければなりません。神様が任せてくださったからです。偽りのサタンの世の中で、堂々と神様の子どもとしての人生を証明しながら生きていかなければならない召命が私たちにあります。

アメリカで教会学校のリバイバルを導いたDL・ムーディ(Dwight Lyman Moody)先生は、この世を生きるクリスチャンをこう表現しました。海の上を航海する船のように世の中という水を離れていませんが、沈まずにバランスよく航海するものです。

世の中を生きていく間、無駄だと言って世の中を無価値に眺めず、私にくださった神様の贈り物であることを知り、熱心に生きながら再び来られるイエス様を待つ私たちになりましょう。

Since 2023/8/4 Updated 2023/8/6