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2023年 8月13日
主日礼拝

説教
神様と共に歩む信仰
創世記5:21~24

5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
5:22 エノクはメトシェラを生んでから三百年、神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。
5:23 エノクの全生涯は三百六十五年であった。
5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。


車 孝振 (チャ ヒョ ジン)牧師

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当日の説教


説教要旨


私は中学校2年生の時にイエス様を信じて信仰告白をしました。 そして心に熱情ができて毎日聖書を読んで祈り、週末ごとに電車駅の前で伝道をしました。 そんな私の情熱を冷やす聖書の部分が現れました。 それは系譜と説明書でした。 「誰が誰を産んで死んだ」という内容と、幕屋を作る出エジプト記の説明書は情熱では乗り越えられない聖書の難しい部分でした。そのため、居眠りしたり、適当に読んだりしました。 そうするうちに神学を学んで聖書を深く学びながら、すべての系譜と幕屋を作れるように書かれた説明書にも神様の深い恵みがあったことが分かりました。その後、聖書を読むたびに現れる系譜は研究して勉強しながら深い意味を考える部分になりました。 情熱で聖書を読む時もあれば、じっくりと知的に聖書を研究する時もあります。 そして心で聖書を考えながら読む時もあります。 聖書は様々な方法で読む時に豊かな恵みがあります。
今日は創世記に書かれたアダムの系譜の意味と系譜の中の一人であるエノクの信仰についてお話ししましょう。

1. 二つの系図の話

今日私たちが読んだ聖書箇所の前にはカインの系図が出てきます。 カインの系図を見ると、カインが弟のアベルを殺した後、命を保護される恵みを受けますが、彼の子孫はその恵みを受け継ぎません。 特にレメックという人は一夫多妻を通じて結婚という神様が与えた制度を乱し、殺人を犯してもそれを自分の妻たちに誇ります。 罪に対する罪悪感のない人物です。 アダムとエバが神様との約束を破った後、彼の子孫たちにはその罪悪の流れが続いていくのが見られます。 そしてそのような罪の流れは、今この地に住むすべての人々の姿の中でも見られます。 私たちは毎日、レメックよりも悪い人たちの話をメディアを通じて見ています。 レメックほどではなくても、私たちの心の中にも嫉妬し憎しみ、貪欲な心が存在していることは否定できません。 アダムから今まで私たちは生命は続いてきましたが、罪の影響力の下で生きる軟弱な人間で罪人の人生を生きていくしかない存在だということをカインの系図は私たちに鏡のように見せています。

しかし、神様はアベルに代わってセツをアダムとエバの家庭に与えます。 そしてカインの系図とは違うセツの系図が出てきます。 神様はこのセツの系図を通じて、エバに頂いた生命と恵みの約束をセツの子孫を通じて続けていきます。 (創世記3章15節) 特にマタイの福音書1章を見ればイエス様はセツの系図を通じてこの地に生まれるのを見ることになります。 そして、その系図を通じて救いがなされ、恵みの約束が成し遂げられることが分かります。

カインの系図とセツの系図、この二つの系図の中でも神様が私たちにどんな恵みを与えてくださるのかを知ることになります。 私たちは罪の中で生きていきますが、神様はいつも私たちに恵みを与えて下さいます。 世の中を見れば、いつも絶望して希望がないように見えますが、霊的な系図を継続する教会は神様がくださった希望であり恵みです。

それでは今日、創世記5章に出てくる系図とエノクという人物を通じてどんな神様の恵みがあるのかを一緒に話したいと思います。

2. セツの子孫はみな子孫を生んで死んだ

1)皆が死ぬ

まず話したいのは、セツの系図の中の「死んだ」という表現です。 彼の子孫はアダムが930年生きて死んだように、誰も例外なく死にました。 一番長生きした人はメトシェラですが、969年を過ごしましたが、かなり長い時間を生きていても彼も死にました。 これは当然のことです。 アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べたからです。 神様と結んだ約束を破り、神様はその実を食べる日には死ぬとおっしゃったので、人が死ぬのは当然の罪の結果です。 死について聖書は明確な教えを与えています。

罪の報酬は死で。しかし神の賜物は私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。(ロ-マ6:23)一度死ぬことと死後にさばきをえけることが定まっています。(へブル9:27)

2)子孫を通じて人生は続く

しかし、人がいつも神様を捨てて契約を破って罪悪に戻りますが、神様の恵みは最初から最後まで変わりません。 神様はもっと積極的に人間との約束を守って続けようと最善を尽くします。 まずアダムとエバが罪を犯したその瞬間、すぐに死に遭わないということを見れば分かります。 それが神様がくださった恵みです。私たちは死を避けることができず、いつかは死ぬことになりますが、その死に遭う日まで人生ということを与えられました。 それで人生は神様がくださったもので、そのように与えられた人生の時間は死を避けられない人間に与えた恵みです。

罪の系図を続けるカインの子孫とは違って、セツの子孫は全生涯を生きて死んだという表現が繰り返されます。 ヘブライ原語の表現を解釈すれば、人生を最大限享受して死んだ。 と言えます。 神様は私たちにくださった人生を思う存分享受することを望んでいます。 もちろん辛い瞬間もあれば楽しかった瞬間もありますが、そのすべても人生の一部です。 だから意味がなく、ただ辛いだけの人生というものはありません。 すべてのことがともに働いてして益となるからです。

そして、このような人生は子孫を通じて続いています。 セツはアダムの人生を続け、エノシュはセツの人生を続けました。 エノシュの人生はケナンとマハラルエルとヤレテを通じて続き、そのように続く人生の系図の中でイエス様がその人生を継いで生まれ、死という罪の結果を終わらせました。

3. エノクには付加的な説明が加えられます。

聖書の中では多くの系図が出てきます。 ほとんどは誰かの息子という程度だけが記録されますが、たまには人物に対する説明をすることがあります。 その追加説明を通じて教えようとする教訓があるからです。 セツの系図の中で、エノクという人物も追加的な説明が記録されています。どんな内容があるのか一緒に見てみましょう。

1)神様と共に歩みました。

まずは「神様と共に歩んだ」ということです。エノクの人生は神様と共に歩む人生でした。 神様がエノクに自身を表わし、彼と深い交際を交わしたことを知らせてくださいます。このような事実はカインが神様を離れた(4:1)以後、一度も「神の名前」が言及されたことのないカインの系図と明確に対照的な表現です。 この「共に歩む」という表現は韓国語では「同行」と書いてあり、日本語訳ではト「共に歩む」としています。 単純に歩いて散歩する程度に解釈されますが、この単語が聖書で神様に関連した用語として使われる時には神様との深い人格的交流を語る時によく使われています。 セツの系図でエノクの人生を記録する時、「神様と共に歩んだ」という話は彼の人生の態度と神様との深い交流がある信仰の姿を象徴的に示しています。 そして彼の信仰を通じてキリスト教の聖なる信仰と敬虔さは与えられた義務を行う宗教的な人生ではなく、神様との人格的な関係であることを明確に示しています。

2) 死なずに天国に行きました。

この「神が彼を取られた」という表現に対するヘブライ書の説明は、エノクは「死を見ることがないようにうつされた」と説明しています。 死という過程なしに天国に行く場合のことです。 この過程のような過程を経た人は、今日私たちが話しているエノクとエリヤです。 また、イエス様の場合は死を経験しましたが、復活して昇天されました。 エノクとエリヤ、そしてイエス様の昇天過程は、もうすぐいらっしゃるイエス様の再臨の時の聖徒たちの姿を見せています。 イエス様が再びいらっしゃるまで、この地に生きている聖徒たちはエノクのように死なしに新しい体に変わりイエス様を迎えるでしょう。 もちろん死んだ聖徒たちはイエス様のように復活し、新しい体を着てイエス様を迎えます。 そのため、エノクの昇天過程は、私たちが希望を持って待つイエス様の再臨の時のすべての聖徒たちの願いの姿でもあります。

4.神様と共に歩む人生とは何ですか。

1) イエス様を信じる信仰を持つことです。

イエス様はどなたですか。ペテロが告白したように、「生ける神の子、キリスト」です。 父と聖霊と共に永遠から永遠まで存在する三位一体の神の本質そのものです。 (ピリピ人への手紙2章6節)イエス様は神様です。 そんなイエス様がこの地に人として生まれ、33年の人生を生き、十字架に苦しみを受け、亡くなった理由は、私たちを罪から救うためです. アダムから罪の支配下にある私たちを罪の支配から救い出し、カインの子孫の人生ではなく、エノクの人生を生きていくために来られたのです。 エノクのように私たちと共に歩んでくださるためにいらっしゃったのです。 それでエノクのように神様と共に歩む人生を生きるためには、まず私たちと共にしてくださるために来られたイエス様を信じることです。

それではイエス様を信じるというのはどんなことでしょうか。

「ですから信仰は聞くことから始まります、聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(ローマ10:17)」という御言葉のように神様の御言葉を聞くのが先です。 そうしていると、私たちの心の中で信じられる心を聖霊が与えてくださいます。 そうすれば、私たちの意志でイエス様を私の救い者、神様として告白することです。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 (ローマ書10:9~10)」このような過程が必ず論理的な順序どおり続くわけではありませんが、イエス様を信じる信仰で私たちは神様と共に歩む恵みを受けることになりました。 そして、その恵みを通じて毎日、神様と共に歩む人生が可能になったのです。

2)そして神様と霊的な交わりがある人生を送るようにされます。

神様は霊的な方です。 被造物である私たちが霊的な神様と交流するためには、必ず聖霊が一緒に助けなければなりません。 毎日、聖霊の助けのために、私たちは祈りというものをすることになります。 時間と場所を決めておいて行う祈りもあり、場所と時が不如意であっても心の中で神様に願いを伝えながら頼り依存する祈りがあります。 しかし、なるべく時間を決めて場所を確保し、毎日十分に祈り、神様と共に歩むことを願いながら深く祈った方が良いです。 そうすれば、始まりは単純な私たちの願いと感情を訴えることから出発しますが、いつのまにか神様の意思と御心のための祈りで成熟し成長していくのを見ることができます。

また、聖書を読むことも重要です。 神様が私たちにどうすることを望んでいるかは、神様の教えが書かれている聖書によく表れています。 今日のエノクを通じて、真の敬虔さは宗教的な行為ではなく、神様との人格的な交わりであることを教えているように、聖書は私たちがどのように信仰を守りながら生きるかをよく教えています。 何より神様の心を私たちは聖書を読みながら深く知ることになります。 私たちをどれだけ愛しているのか、またどんな人生を生きることを望むのかが悟られます。つなり、創世記からヨハネの黙示録までは私たちのためにくださった神様の手紙と同じです。 懐かしい人から来た手紙を読むと、その人が今そばにいなくても一緒にいるような心のようになるように聖書を読んで黙想して勉強すれば、神様が共にいらっしゃるのと同じ気持ちになります。 何よりも聖霊が多くのことを知るように助けて教えてくださるので、実際に神様と共に生きることになります。

3)最後に、神様の御心が成し遂げる人生になるのです。

ヘブル人への手紙には、「彼が神に喜ばれていた」と記録しています。 彼の人生は神様が喜ぶ人生でした。 もう少し深く考えてみると、神様の嬉しい意味がエノクの人生の中でなされたということです。 私たちはそれぞれの人生の姿が違います。 生まれた国も地域も家も家庭環境もできた顔も、それで私たちに向けられた神様の意思が個人ごとに異なって現れます。 各自に向けた神様の意思が異なることもありますが、結局は神様が喜ぶ人生が現れます。 そして、そのような生活の中には、私たちの祝福と永遠の平安と真の喜びが神様の意思になります。 まるで親が子供の真の幸せを願うことと同じです。

神様と共に歩む人生を通じて毎日が祝福され、幸せな日になることを願って祈ります。

Since 2023/8/4 Updated 2023/8/12