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2023年 10月1日
主日礼拝

説教
死の道に立ちはだかるイエス

ルカの福音書 7:11~17

7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大勢の群衆も一緒に行った。
7:12 イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。
7:13 主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。
7:14 そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」
7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。
7:16 人々はみな恐れを抱き、「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って、神をあがめた。
7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤ全土と周辺の地域一帯に広まった。
車 孝振 牧師

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当日の説教


説教要旨


私は日本に来て、四度お葬式に参列しました。そして、火葬場には三回行きました。日本と韓国の葬儀は似ているようで違うところがたくさんありました。まずは服装が違いました。韓国では黒いスーツを着なくても礼儀に反することにはなりませんが、日本では必ず黒いスーツを着なければなりませんでした。それから亡くなった方の顔を直に見られる点も違いました。韓国では、いくら遺族でも亡くなられた方の遺体を目にするのは、納棺式の時だけです。火葬場にも違いがありました。韓国では火葬中、遺族は広いロビーにある椅子に座って待つ場合がほとんどです。その日、火葬場にいる他の遺族の隣に座り、仲良くなったりすることもあります。日本では火葬が済むまでの時間を待合室で過ごすのですが、それはいいなと思いました。韓国では火葬が終わると、火葬場の職員が来て遺骨を粉砕機で砕き、骨壺に入れて遺族に渡します。ところが日本では遺族が故人の遺骨を長い箸で取って骨壺に入れていました。三回見ましたが、まだ慣れませんし、びっくりしました。しかし、死に対する人の思いは、日本も韓国もそれほど変わりませんでした。悲しく切ない気持ちは、どこでも変わらないことでしょう。こと家族の葬儀は辛く悲しいものです。

1.三つの葬儀

1) 私も二人の家族が先に神に抱かれました。その一人が私の父です。

父は私が10歳になった年の冬に、突然、亡くなりました。イエス様に対する信仰がありましたが、教会と社会に対する傷が大きかった父は、お金を稼いで成功するまでは教会に行かないと言っていました。ある日、夢か幻想か、家の前の床に座って居眠りをしていたら、目の前に錆びた十字架を見たそうです。そのことを母に話しながら、まるで自分の信仰が錆びているようだったと言って、再び教会に行きたい、と言いました。そうして、その年の冬に亡くなりました。長男だった私が、遺影を胸に抱いて葬地に向かうバスに乗った時、死がどのようなものか分からなかったにもかかわらず、父に対する懐かしさで、口をつぐんだまま涙を流した記憶があります。その後、父がいないということは生活の一部になりましたが、ときおり父が恋しくなり、特に人生の大きな問題を決めるときには、父がそばにいてくれたら良かったのに、と思うこともありました。

2)もう一人の家族は妻の父、私の義父です。

ウンビさんとお付き合いしていたときから義父の健康はあまり良くありませんでした。それでも命に別状はないと考えていました。ウンビさんのご両親に結婚の挨拶をするために、南海まで4時間も運転していったことがあります。(韓国では男が女の家まで行ってお父さんに結婚の承諾を得る習慣があります。韓国ドラマを見ると、女性の父親が『私の目の黒いうちには絶対だめだ。娘をあげることはできない』と反対する場面が多く出てきます。)『もし、気にいられなかったらどうしよう』と心配し、緊張しながら運転していました。その時、義父に聞かれた三つの言葉が思い浮かびました。

初めに「娘のどこが好きなのか?」と聞かれました。私は「理由などなく、ただ好きです」と、答えると「愛に理由などいらない」といわれました。二つ目は、以前ならウンビが家にくる時はおめかししてきたのに、どうして今日はみすぼらしくして来たのか、でした。この先、娘が苦労するのではないかと思って投げかける寂しさのようなものでした。そして三つ目は日本に行ったらラーメンをたくさん送る、ということでした。その時はいくら貧しくても、ラーメンが買えないほど貧しくはないのに…と、今度は私が寂しい思いをしました。今思うと、いつでも韓国ラーメンは恋しいものです。

それから私はあなたが気に入った、と言って下さいました。感謝な思いで4時間運転して帰り、その日から結婚の準備をはじめました。

結婚式を一ヶ月後に控えたある日、一緒に結婚式の打ち合わせをしていると、ウンビさんの母から義父が亡くなったという連絡がありました。すぐさまバスのチケットを買って彼女のご両親の家に向かいました。そして 3日間の葬儀に訪ねて来る訪問客を迎えながら葬式を執り行いました。結婚する一ヶ月前でしたが、その3日間、私はもう家族の一員になっていました。そして、スーパーに並んでいる韓国ラーメンを見るたびに、ラーメンを送ると言ってくださった義父の顔が思い浮かんだりします。

3)家族ではありませんが、もう一つ特別な葬式がありました。

元日に執り行われたお葬式です。亡くなったのは、3年間神学校でともに勉強した私よりひとつ年上の方でした。頭がよくて信念の強いその人は、中高生のための奉仕をしたくて、神学校を卒業してから教育学を学ぶために、大学院に進学するほど熱心な方でした。ところが、神学校を卒業してからあまり会えなくなったその人の訃報のお知らせを受けたとき、なによりも驚いたのは、葬式を執り行う家族が誰もいなかった、ということでした。私を初めみんながショックを受けていました。

そこで、在学していた大学院が葬儀を執り行うこととなり、母校だった合同神学校も支援してくれました。そうして、火葬場に行ったのがちょうど11日でした。誰より有能な人だったこともあり、寂しい人生を歩んでいたことすら知らずにいたことを、申し訳なく思いました。心では親しかったものの、何も知らなかったこと対して申し訳ない気持ちを抱くしかありませんでした。いまでもグループチャットに、11日になると決まってその方を覚えて名残惜しさを述べる人もいます。私たちは知っています。後に、イエス様と共に寂しくないあの人に出会う日が来ることを。そのことを忘れず、使命を果たすようにと、11日に葬儀を執り行なったのでは、と考えるようになりました。

2.聖書の話

少し長くなりましたが、私が経験した意味深い葬儀についてお話しました。誰かの死に、家族として、また友人として立ち会えることがどれほど大きい悲しみなのかを話したかったからです。今日のみことばには、ナインという町から出てくる葬式の行列が記されています。特に今日のみことばに出てくる葬儀は、やもめが一人息子を失うというあまりにも大きな悲しみでした。おそらく町の人たちがその母の悲しみを知っていたために、その町の人々が大勢、参列したのかもしれませんでした。ところが、その道に立ちはだかる方がいらっしゃいました。 イエス様でした。そして、驚くべきことを見せて下さいました。死んだ息子の棺に触れ「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と言うと、死人が起き上がり、ものを言い始めました。この驚くべき出来事を通して、聖書が証しする恵みを一緒に分かち合いたいとおもいます。

1)まずは、イエス様が死の行列に立ちはだかります。

死は誰も避けることができないものです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(へブル人の手紙927とあります。聖書は一人も例外はないと教えています。私たちは、みんながはっきりと知っている結末に向かって走っています。ですから誰かの葬儀は、私の未来の葬儀となります。それで、ナインという町の葬儀は、私たちの葬儀でもあるのです。

ところが、その道に立ちはだかって死に立ちはだかる方が現れました。その方が、イエス·キリストです。イエス様は2千年前のナインの町に暮らすやもめの息子の死の前に現れました。イエス様は、偶然、ナインの町を訪れたわけではありませんでした。イエス様が行った日に、偶然、葬儀の行列ができたわけでもありませんでした。イエス様の目的は、その若者でした。また、最も苦しいんでいた若者の母親であり、ともに悲しみながら棺をかついでいたナインの町の善良な人々でした。そして、その前に立って、若者の死への道をふさごうとする明らかな理由がありました。

イエス様は死んだ若者を死人のなかからよみがえらせただけでなく、死の結末が予想されている今の時代、私たちのために地上に来られました。明らかな目的をもって地上に来られました。それは私たちを救い、生かすためです。イエス様が私たちを生かすことができる道は何ですか? 私たちはまだ棺に入っていません。イエス様は時間的に私たちの棺には手に触れることはありません。それでは何でしょうか? それはイエス様が私たちの罪を負うために地上に来られたからです。ローマ書623節に、「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」と、死の原因が罪だと教えています。神の恵みがイエスの中にある永遠のいのちだと教えています。この罪の問題を解決する方法は死ぬことです。肉体が死に、そして永遠に死ぬことです。しかし、神様の愛は私たちを死に渡すことではありません。私たちの代わりに死んでくださる贖いの代価として、この世の誰かではなく、ご自分の一人子イエス様を遣わされたのです。そのためにイエス様は、十字架にかけられ、苦しみに耐えながら亡くなられました。そうして、私たちの罪が赦され、私たちは死ななくなりました。イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ11:25.26) このみことばはイエス様の友であるナザロが死んで埋葬された場所で、彼をよみがえらせる時に、ラザロの姉たちに語られたことばです。そして、私たちにも語られた御ことばでした。私たちがイエス様を信じるとき、私たちは絶対に死なず、死んだとしても、またよみがえります。イエス様が私たちの死の道に立ちはだかったからです。

2)二つ目は、イエス様は息子を失った母親をなぐさめました。

昔、ある先生の説教を毎朝インターネットでライブ配信する奉仕を1年ほど受け持ったことがあります。その先生はよくこんな話をされていました。「葬儀で泣くのは死んだ人に良くない。死んだ人はこの世より良い天国に行ったのだから、笑って見送らなければならない」という話でした。半分は正しく、半分は間違っていると思います。死者はイエス様のそばで安らぎを享受しますが、遺族は、愛する人を失った世界に残されています。死んだ人が天国へ行ったことを信じて、また後で会えると望んでいますが、今はそばにいませんし、当分は会えないので寂しい思いを抱きます。私も父が天国へ行ったと信じています。そして再会できると信じていますが、いまだ心に懐かしさと、悲しみがあります。ジュンヒとラウンを見るたびに、まだ生きていたら二人を見てどんなに喜んだろうかと思ったりします。ウンビさんも義理の父に対して同じ思いを抱いています。ですから慰めが必要なのです。イエス様は息子を亡くしたお母さんを見てかわいそうに思い、泣かなくてよい、と慰めました。悲しんでいる人を見て、かわいそうに思われました。

私が中学生のときに、教会のキャンプの祈りの時間にたくさん泣いた記憶があります。家族と離れて一人で過ごさなければならなかった寂しさを、神様は父親として私を慰めてくださいました。あたたかい父親の愛を受けられなかった心の思いを、自分でもよく分からず、イエス様を信じた後、祈って賛美をする度に神様は私にいつも父親として接してくださり、ともにいてくださいました。父親に対する寂しさは今もありますが、悲しみよりも父なる神様の慰めがいつも私にとって力となりました。

神様は心に痛みのある人をかわいそうに思っています。奮闘しながら生きている私たちの苦労と苦痛とをご存知です。そして、私たちのもとに来て、その悲しみの行列の前で私たちを慰めて下さいます。

3)最後にイエスは私たちを再びよみがえらせてくださるでしょう

先に話したように、イエス様は死の道に立ちはだかり、私たちを死なないようにしてくださると言いました。しかし、依然として私たちはもっとも近い家族や友人を先に送らなければならない痛みを体験することがあります。それにもかかわらず、希望があるのは、私たちをよみがえらせてくださるからです。

イエスは彼女に、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(11:25.26)と言われました。

イエスは十字架で死んだだけではなく、よみがえられました。そして、私たちの復活の初穂となりました。イエス様のよみがえりがどうして永遠のいのちの希望となるんでしょうか。肉体をもってよみがえるからです。イエス様は神様なのだから、よみがえっても私たちと違うのではないかと思うかもしれません。しかし聖書はイエス様が肉体をもってよみがえったと証ししています。

これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。(ルカの福音書2436~43

イエス様は肉と骨のある体をもってよみがえられました。そして、よみがえったからだをもって食べ物を食べました。これは私たちがイエス様のように復活することを教えているのです。

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(Ⅰコリント2015それで死は、もはや絶望的なものではありません。使徒パウロはすべてのクリスチャンが告白すべきことをこう述べています。

「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(第一コリント1555~57

3. 終える言葉

私もみなさんもまだ死を体験したことがありません。このなかに、そこで、昔のことを思い出すしかありませんでした。そうする中で、前、奉仕した教会の祈祷会にある牧師先生のメッセージを聞いて黙想したことが思い出しました。

ある牧師先生が罪の赦しを宣言して病人を治すイエス様の恵みを分け合いながら亡くなる前の方がイエス様を信じて平安に亡くなる話をしてくださったのですが、まるで現場でその場面を見ているような気分でした。

「先生、私は天国に行けますか?」

「イエス様を信じて罪を赦されれば行けますよ。」

「ではイエス様を信じます。」と告白した方が、平安に涙を流しながら亡くなる話を聞いて、心の中に感謝が溢れました。一人の人がイエス様を信じ、亡くなる場面は、私がどうして日本に来たのかを思い出すきっかけとなりました。そして私もそのように一人の人を神様に導く働きができるようになりたいと祈りました。これが可能なのは、イエス·キリストが死の道に立ちはだかり、私たちに永遠な命と罪の赦しをお与えくださったからです。



Since 2023/9/25
 Updated 2023/10/8