説教
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主の道を用意する者
マタイの福音書 3:1~13
3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
3:7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
3:10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。
3:11 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。
3:12 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
3:13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。。
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車 孝振 牧師
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当日の説教 |
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説教要旨
子が生まれる」という知らせを知らせた時、ザカリヤは信じられませんでした。(8-18節)ガブリエルはヨハネについて次のように語りました。「その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、また母の胎にいるときから聖霊に満たされ、イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、民を用意します。(15-17節)。」神様がおっしゃったとおり、ザカリヤの妻エリサベツはヨハネを産みました。割礼の儀式で、ザカリヤは息子に「幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え」と言いました。(76節)
バプテスマのヨハネはイエス様と親戚でした。彼らの母親が互いに親族関係だったからです。(ルか1:36)天使ガブリエルがマリアに「彼女がイエスを産む」と言ったとき、ヨハネについても話しました。マリアがイエス様を妊娠してエリサベツを訪ねた時、ヨハネがマリアの声を聞いて喜びながら母胎で踊りました(ルカ1:39-45)。
結婚していない処女だったマリアがイエス様を妊娠することになって、どんなに驚いて怖かったでしょう。しかし、神様のみ力で妊娠することになった高齢のエリサベツを通じて神様はマリアを励まされました。
2.バプテスマのヨハネの働き
1)バプテスマのヨハネは荒野に叫ぶ者でした。
それについての予言は旧約、イザヤ書40章に出ています。(40:3) 彼は荒野で暮らしました。ラクダの毛の衣をまとい、革帯で腰を締めて、いなごと野蜜を食べながら、非常に禁欲的な生活を送りました。そして予言どおり、荒野で叫び、イスラエルの悔い改めを促しました。そして悔い改めのバプテスマを授けました。
5. そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、6.自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。7.ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。8.それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。9.あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。10.斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。(マタイ3:5~10)荒野で悔い改めを叫ぶバプテスマのヨハネの説教は、霊的に眠っているイスラエルを目覚めさせる叫びでした。イエス様がこの地に来られるまで約400年間、神様は預言者を送りませんでした。誰も神様の御言葉を代言しないこの長い沈黙の時間を破り、バプテスマのヨハネが現れたのです。その間、人々は間違った信念と生活に陥りました。自らアブラハムの子孫であることを誇り、自分たちだけが救われると考えました。また、モーゼの律法を徹底的に守ろうとしました。
しかし、人間の限界によって律法は守られない場合が多かったが、宗教指導者たちはよく守るふりをする偽善に陥っていました。また、普通のユダヤ人は罪の誘惑に陥り道徳的にも堕落した人生を生きていく場合が多かったです。このような時代にバプテスマのヨハネは荒野で禁欲的な生活をしながら堕落した世の中に向かって神様の審判を警告し、聖なる者になされるための悔い改めのバプテスマを受けるように言いました。
2) イエス様の道を用意しました。
彼がこのように世の中に向かって叫び、すべての過ちに対して警告し、バプテスマを授ける理由は、今すぐ来るイエス様の道を用意するためでした。
3.荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。4.すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。5.このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる。」[イザヤ書 40:3~5]
道がないところに道を作るためには、へこんだところを埋めて、デコボコなところを平たくすることが必要です。主の道を用意するために彼がしたことは、神様に対して間違った多くのことを再び回復できるよう警告し叫ぶことでした。まるで壊れた道を再び補修するように外れた宗教心と誤った民族意識、そして堕落して罪に陥ったのにそのことを意識ない人々に何が間違っているのかを知らせ、今すぐそのすべての根本的な問題を解決するメシア、すなわち、主イエスが来ることを知らせ準備するようにしました。
3)イエス様にバプテスマを授けました。
人々はバプテスマのヨハネをメシアまたはキリストかと考えました。しかし、バプテスマのヨハネは自分がキリストではないと言いました。そして
私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。[マタイ3:11]
とい言いました。多くの人たちに知られて有名になったバプテスマのヨハネは、自分の役割を知っていました。そして、何のために自分がこれらのことをしているかを知っていました。それは地上に来られるイエス様のために準備し、道を開く者の役割をするためでした。霊的に眠っていた人々の心にイエス様がいらっしゃることをもう一度悟らせる自分の役割を明確に知っていました。
そしてついに彼はイエス様に会い、バプテスマを授けました。幼い頃一緒に遊んだ親戚の兄としてではなく、神様が送った預言者として神様の御言葉を実現しようとイエス様にバプテスマを授けました。そしてイエス様はそのようなバプテスマのヨハネが備えた道の上で天国の福音を伝え、人々を直し、イエス様自身に与えられた十字架の道を進みました。
3. バプテスマのヨハネの最後
バプテスマのヨハネはヘロデ大王の次男であるヘロデ·アンテパスが弟ピリポの妻ヘロディアを妻として迎えると、そのような行動は神様の前で正しいことではないと指摘しました。ヘロデとヘロディアは、そんなヨハネが目に障りました。できれば除去したかったのですが、ヨハネがあまりにも人々に預言者だったので、ヘロデはヨハネを恐れていました。だからあえて殺すことはできませんでした。反面、ヘロディアは残忍で恐ろしい女性でした。彼女はいつもバプテスマのヨハネを殺す機会をうかがっていました。
ある日、ヘロデが自分の誕生日に重臣や千人隊長とガリラヤの大事な人たちを招いて祝宴を開きました。その時、ヘロディアの娘サロメが美しい踊りをすると、これに感動したヘロデはサロメに「何でも欲しいものをあげる」と約束しました。幼いサロメはすぐに母親のところに駆けつけ、ヘロデ王が自分にすべてを約束したとし、何をくれと頼むかを尋ねました。ヘロディアは娘にバプテスマのヨハネの首を要求するように言い、何でも聞いてあげると約束したヘロデはバプテスマのヨハネの命を奪いました。
あまりにも偉大な預言者バプテスマのヨハネのこのような死はとても虚しくならざるを得ません。ある聖書研究家は、このようなバプテスマのヨハネの死について、神様の働きに最善を尽くした人生の結末がいつも順調ではないと話したりもしました。しかし、イエス様はこの順調でない結末を迎えたバプテスマのヨハネが用意した道の上で天国の福音を伝え教え、多くの病人を治しました。
そして十字架の道を歩かれました。
4. バプテスマのヨハネの人生が私たちに教える教訓は何でしょうか?
1)イエス様のために喜んで主の道を用意する人生を送りました。
バプテスマのヨハネには多くの弟子たちがいました。 しかし、バプテスマのヨハネは自分の分派を作り、所有しようとしませんでした。
むしろイエス様に従うよう弟子たちをイエス様に送ったりもしました。
35.その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。36.そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。37.二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。[ヨハネの福音書1:35~37]
自分の2人の弟子が自分から離れることに対して残念に思うかもしれません。しかし、バプテスマのヨハネはイエス様についてこのように言いました。
26. 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」27. ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。28. 『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。29. 花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。30. あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」
バプテスマのヨハネは自分がイエス様の道を用意するために来た者であることをよく知っていました。それでイエス様が妬む対象ではなく、自分が備えた道を歩むキリストなので、当然その御業がうまくいくことを願うのでした。
このような姿はパウロにもよく表れています。パウロを妬んでいた人々がパウロが監獄に閉じ込められたという話を聞いて、むしろより競争的に福音を伝えたという話を(パウロが)聞きました。パウロは気分が悪くなるより、むしろ福音が伝えられることに感謝しました。彼自身が福音を伝え、イエス様の名前をもっと知らせたかった人だったからです。これは本質的なことに忠実たったから現れるものです。何が重要なのかを知って生きる人は他人の成功に対して嫉妬の心がない人生です。むしろ本質に忠実な人生が自ら満足する結果をもたらします。
2) 天国で私たちはバプテスマのヨハネより偉大です。
バプテスマのヨハネが監獄に閉じ込められ死を前にしている時、イエスに対する色々な話を聞きました。バプテスマのヨハネは弟子たちをイエス様に送って「旧約の予言通りに来られるという方があなたですか?」と質問しました。この質問の中にはバプテスマのヨハネの複雑な心が込められています。キリストが来られてすべてを回復するというのに、自分がバプテスマを授けて神様の子羊とまで言った方が本当にキリストなのかという不安な気持ちがあったはずです。死を控えて自分がしたことの結果を見たかったのでしょう。また、自分が正しくしたかについての不安もあったはずです。偉大な預言者として模範となる人生を生きてきたバプテスマのヨハネでさえ、不安な現実の前では心配して確認したがる人間であることを私たちは見ることができます。聖書の多くの人物が登場して偉大な神様の働きをやり遂げるのを見て、私たちのみすぼらしい信仰が萎縮するかもしれません。しかし、聖書は常に彼らの間違いと弱さ、そして間違った行動をしたことまで記録しています。それは到底ついていけない人生を要求ということではなく、弱いですが神様が助けながら導いて下さるということを知らせているのです。
イエス様は弟子たちにこのように言います。
11. まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。[マタイ11:11]
バプテスマのヨハネはこの地にいたどんな人物より偉大なことをしました。まさにイエス様の道を用意し、またイエス様にバプテスマを授けイエス様のこの地の働きを始めるようにしました。だから、どんな人より偉大な人だと言えます。
しかしイエス様は「天国では皆がバプテスマのヨハネより偉大だ」と言われました。これは彼の疑いに関して言われた御言葉でした。バプテスマのヨハネが自分に与えられた神様の働きに最善を尽くし、それによってイエス様に会いましたが、人間的な限界にぶつかるしかありません。これは弟子たちもみんな同じでした。キリストだと信じて信仰も告白しましたが、十字架で苦しみを受けられたイエス様の前で皆逃げてイエス様を捨てました。彼らは後に偉大な使徒になりましたが、このすべてが可能だったのは、五旬節の聖霊降臨後でした。聖霊によって導かれた使徒たちはダイナミックな神様の働きができました。そして数多くの信徒たちが聖霊によってイエス様を信じて従う人生を送ることができるようになりました。しかし、弱い限界を持った人間の意志では信仰を維持することができません。バプテスマのヨハネはこのような限界を持っている人間でした。それにもかかわらず、イエス様は彼の人生を偉大に評価しています。そういう限界の中でも最善を尽くしたからです。そんなバプテスマのヨハネにイエス様はどんな証明よりイザヤの予言(イサヤ61:1)で答えました。
私たちは皆、弱い人間です。今日、私たちが信仰を持って教会に出てくることができるもの、神様を父と呼び、祈ることができるこの信仰は、私たちの意志で持つものではなく、神様の賜物です。
だから私たちの信仰は奇跡です。
そして、私たちは奇跡を持って生きている人々です。世の中のつまらない誘惑と挫折のささやきにもめげず、勝利して堂々と生きていくことを願います。
また、バプテスマのヨハネのように本質的な使命に最善し、自分に与えられた神様の恵みを享受することを付け加えて祈ります。
Since 2023/10/3 Updated 2023/10/8
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