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2023年 11月5日
主日礼拝

説教
桑の木に登ったザアカイ

ルカの福音書19章1~10節

19:1 それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
19:2 するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
19:9 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。
車 孝振 牧師

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当日の説教


説教要旨

多くの人が幸せで成功した人生を送りたいと願います。それで書店に行くと、人生の生き方にる本(自己啓発書)を多く見かけます史の中の偉大な人物や今の時代成功した人の生き方を学ぼうとします。それで、成功した業家の話をたくさん知りたいと願います。代表的な人がスティ·ジョブズというアップルの経営者です。このアイフォンというものを作った社です。スティブ・ジョブズからは革新というものを人生のノウハウとしてぶことができます。彼はアビムという社がコンピュを軍事用と企業にだけ使えるように販していた時、「マッキントッシュ」という個人向けのコンピュを作って、「iPod」という音を聞く機械を電話機でまた個人用携コンピュとして使えるように作ったのが、まさにこのアイフォンです。スティブ・ジョブズの経営マインドは、このアイフォンを通じて影響をえたのです。
前置きが長くなりました。

多くの人は、成功したと言われる人の人生から何かを学ぼうとします。ウォーレン・バフェットという優れた投資家と昼食をともにするために、400万ドルを払ったりします。

今日、聖書を通して一緒に分かち合いたい人物は、ザアカイという人物です。ある意味、成功した人生を生きた人といえます。彼は当時の税務職員のような職業につき、金持ちになった人でした。今の時代でいえば、成功した実業家のような人生を生きていた人ではないかと思います。そんな人をイエスがお尋ねになりました。そして、彼の人生がわりはじめました

今日はザアカイがイエス様に出会い、どう変わったかを、また、何が本当の成功なのかを一緒分かち合いたいと思います。

1れではまず、ザアカイがどんな人なのかを見ていきましょう。

1)ザアカイは取税人でした。

その当時の取税人の仕事は、ユダヤ人から税金を集めてローマに送ることでした。一種の税務職員でした。税金がイスラエルではなくローマに送られるということは、当時のイスラエルがローマの植民地だったことを意味します。そのため、イスラエル人は取税人を憎んでいました。同族のお金を奪って敵のローマに捧げることを、先頭に立ってしていたからです。また、多くの取税人たちが決められた税金よりも多くの税金を集めて、自分の財産を増やしていたので、人々は彼らをお金だけをおもう貪欲な罪人と思い、相手にしませんでした。それで、人々は罪人と言う時、「取税人と遊女」と言いました。

2)ザアカイは金持ちでした。(取税人のかしら)

ザアカイは取税人でしたが、普通の取税人ではなく、取税人のかしらでした。イエス様の弟子の中でマタイが取税人でした。しかしマタイは税関で働いていた取税人でした。銀行の窓口にいる職員のようなものでしょうか(マタイの福音書9:9)。ザアカイは取税人のかしらとして高い位にあった成功者でした。今で言うと税務署長くらいになるでしょうか。それとも銀行の支店長くらいになりますか。田舎の小さな銀行の支店長より大きな都市のメガバンクの支店長の方が影響力があるように、エリコという大きな貿易都市の取税人のかしらでした。資料を見ると、エリコという都市はバルサムという香油の原材料が取れる有名な都市でした。また、死海が近いため、硫黄と歴青と塩の取引が盛んに行われ、莫大な富を蓄積していた巨大な貿易都市でした。このように、お金が溢れる大都市で税金を取り立てることは、ローマにとって重要なことでしたので、エリコの町で取税人になること、そして取税人のかしらになることは、経済的に社会的に成功した人生を送っていたことを意味します。ザアカイはその都市の取税人のかしらでした。

3)ザアカイはイエス様に会いたいと願っていました。

ザアカイはイエス様がエリコに来られたという噂を耳にします。この時、イエス様はイスラエルで知らない人がいないほど有名になっていました。政治的にローマから解放されることを望む人から、死にかけている奴隷を直してもらいたいと願うローマの百人隊長に至るまで、イエス様に対するそれぞれの渇きと願いとがありました。ザアカイもまたイエス様に会いたいと願っていました。ザアカイはどのような気持ちでイエス様に会いたがっていたのでしょうか?

4)ザアカイは桑の木に登りました。

ザアカイがイエス様に会いたいと願っていたのは、単に興味があったからではありませんでした。好奇心だけなら、積極的に群衆を追い払うほど無理をしません。単純な好奇心は無茶をしません。

ところが、ザアカイは背が低かったせいで、群衆に埋もれてイエス様が見えなくなると、すぐに桑の木の上に登ります。その都市で有名な取税人のかしらザアカイです。 イスラエルの人たちは認めませんが、ローマ総督やヘロデ王のような権力者のもとで働いている社会的地位のある人が、多くの人たちから見える桑の木に登ったことは並々ならぬ情熱がなければできないことです。彼は心からイエス様に会いたいと願っていました。遠くからイエス様を見るだけでも、私に何かいいことがあると思ったのでしょうか?

5)純粋ですが、孤独な人でした。

イエス様はザアカイをご覧になると、降りてこなさいと言われました。それからあなたの家へいっしょに行こうと言われます。その日はザアカイの家に泊まるとおっしゃいます。その時、ザアカイが急いで降りてきて喜びながらイエス様をお迎えしました。

ザアカイがイエス様を家にお迎えする姿には、あまりにもすごい人を家に招待する栄光もありますが、思い出の中でただ私をありのまま受け入れて友達に会う楽しみもあります。

皆さんは幼い頃の友達に会ったら何を話すでしょうか。私は仲の良い友達に会うと、昔話で盛り上がります。昔のたわいない、ささやかなことを話しながら夜を明かしたりもします。それで、友達が家に来ると、とても楽しかった記憶があります。友達にとって、私はどのような仕事をしているかではなく、お金をたくさん稼いだかでもなく、貧しい人でもなく、ただその時の私なのです。純粋な姿で喜びながら桑の木から下りてくるザアカイからそんな姿が感じられます。

ザアカイが会っていた人々は、いつも取税人として会う形式的な出会いに過ぎませんでした。そして、自分を憎むイスラエル人たちだったことでしょう。彼らからは税金を取り立てなければなりませんでした。ですから、孤独な人だったはずです。誰一人、彼と心温まる会話をする人はいなかったはずです。だれもが彼を罪人と呼んでいましたから。 そんなザアカイに、イエス様が訪ねてきて彼の家に泊まると言います。

 

2.それで2つ目に、イエス様がザアカイにどう接しられたかについて、お話しようと思います。

1)イエス様はエリコを通りました。(エリコは富裕層が暮らす都会の高級住宅街のようなところです。)

エリコは高級住宅地でした。当時の権力者と裕福な人たちがそこに集まって暮らしていたそうです。アメリカのビバリーヒルズのようなところでしょうか。とにかく、エリコは聖書にはそれほど重要な意味を持っていません。むしろこの都市エリコの再建を企てる者は、主の前にのろわれよと、神様はエリコを滅ぼしたヨシュアに警告しました。(ヨシュア記6:26) イエス様がそんなエリコを通られた理由はただ一つ、ザアカイに会うためでした。そして、そこから桑の木に登ってきたザアカイをご覧になります。

2)イエス様はザアカイの家に泊まられました。

これを見ていた人々は驚き、ざわつきます。彼らが非常に憎んでいて、関係したくない汚れた罪人であった取税人の家にイエス様がお泊りになるというのです。自分たちの考えるメシアがイエス様であったら、そうしてはいけないことでした。取税人のようではない自分たちを認めて、メシアとして自分たちの望み通りに政治的であれ宗教的であれ、何かをしてくださらなければならないのに、あれほど忌み嫌っている罪人の家に泊まるとは、自分たちを侮辱することだと思ったのでしょう。それでもイエスはザアカイの家にお泊りになりました。これが恵みです。罪人である私たちにそれでもイエス様が尋ねて来られて私たちの中にいてくださいます。

3)イエス様はザアカイに「君もアブラハムの子孫だ」と言ってくださいました。

これはザアカイが自分の財産の半分を貧しい人々に与えると言ったからではありません。また自分が税金をごまかして受け取ったものがあれば、4倍にして返したいと言ったからでもありませんでした。ザアカイがイエス様に会いたがり、イエス様はその心を知っていたからです。それでイエスに会い、迎えました。

4)イエス様はザアカイのように失われた者を探して救おうとしました。

10節「人の子は失われた者を探して救うために来たのです。」と言いました。誰が失われた者でしょうか。ザアカイのように、成功しようと最善を尽くしているうちに、やってはいけないことまでして、人々から捨てられた人だけが失われた者なのでしょうか。そんなザアカイのような人たちを捨てて、罪人扱ついする他のユダヤ人たちなのでしょうか? 皆、全部です。今を生きている私たちの中には、ひそひそと話すユダヤ人のような自己中心的な偽善と、ザアカイのように成功のために重要なことを犠牲にして孤独になる一面があります。すべてが神様から離れてしまった人々なので、それゆえに起こる結果です。神様なしに、その方を認めずに生きる人生は、まるで母親を失った子どものような不安と恐れに苛まれる人生です。イエス様には、この全ての者が失われた者たちです。こんな失われた者を探して救おうとした恵みが福音です。

3.結論です。

ザアカイという人物は、物質主義の現代を生きる人々にとって憧れの対象かも知れません。取税人のかしらで成功した仕事に、高級住宅こが集まっているところで社会的地位と富を享受しながら生きていますが、心は貧しくなり、周りには友達より敵が多い現代人のようです。しかし、一方ではひそひそ話をしてこれを非難し、批評するユダヤ人も、その中をのぞけば、ザアカイと違わない心です。また、ザアカイのような能力がなかったり、誠実でなかったり、機会がなかったりするだけで、その中の欲望に違いはありません。彼らは自分の欲望をかなえてくれるメシアを期待し、イエス様がそのメシアになってくれることを願いました。ところが、そのお方が罪人として断罪した取税人と食事をともにし、また彼をアブラハムの子孫だと言った瞬間から彼らはイエス様を捨てました。

結局、金持ちのザアカイなのか、お金のないザアカイなのか、その歪んだ心は同じでした。罪に染まった私たちの本当の姿は、神が失われた神の民であり、子どもです。イエス様が10節にこうおっしゃいました。「人の子は失われた者を探して救うために来たのです。」

私たちを救ってくださった神様に感謝と賛美を申し上げます。 お祈りしています。


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2023/11/3 Updated 2023/11/6