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2023年 12月3日
主日礼拝

説教
クリスマスの恵み

ルカの福音書 23章39-43節

23:39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
23:40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
23:41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

車 孝振 牧師
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当日の説教


説教要旨

もう12月です。イエスが地上(ちじょう)来られたことを喜ぶクリスマスを迎(むか)えようとしています。みなさんはクリスマスというと何を思い浮かべるでしょうか。私の子どもたち、ジュンヒ君とラウンちゃんはサンタクロースとプレゼントを真っ先に思い浮かべるようです。サンタクロースがプレゼントをくれるので、去年の冬からずっと待っています。そして、サンタクロースにもらうプレゼントもずっと同じです。それはアイスクリームです。今年は家族と一緒にアイスクリームを食べるクリスマスになりそうです。

私も子どもの頃、12月になるとサンタクロースを待っていました。サンタクロースが煙突から入って来る絵本を読み、煙突はないかと家中を探し周りました。しかし、うちの煙突は、サンタクロースが入るにはあまりにも小さい床暖房の煙突でした。それでも、私の心配よそに、クリスマスの朝になると必ずお菓子のプレゼントがまくらもとにおいてありました。毎年、同じものでした。青色の包装紙に包まれた小さなお菓子でした。

大きくなってから母親が夜遅くに枕元に置いていったのを知りました。サンタクロースに扮した母親のクリスマスプレゼントは、サンタクロースを信じなくなった小学校6年生まで続きました。(小学校6年生の時に家族と離れ離れになり、ソウルの学校に転校したからです。)おそらくみなさん中には私と同じ体験をされた方がいらっしゃると思います。そして時間が経つにつれてクリスマスはサンタクロースの日ではなく、イエス様がお生まれになったことを記念する日だと思うようになりました。実はその日の主人公は他でもなくイエス様です。

柏駅前と東京の有名な通りの商店街にはクリスマスを知らせるツリーやキャロルが溢れていますが、その通りにはイエス様がおられませんでした。ただ主の教会だけがろうそくに火をともし、礼拝を守り、イエス様のお誕生を祝っています。まだ終わらないですがコロナが治めて、人々は以前のように集まって久しぶりに楽しくクリスマスを送ること思います。しかし、教会はむしろ聖書に戻りクリスマスの主人公であられるイエス様を考える機会になるために、今日のみことばを分かち合いたいと願っています。

今日のみことばには、イエス様が十字架につけられたときに両隣にいた二人の強盗に関する話です。ユダヤ人たちはイエス様を殺そうとしてローマの総督にピラトのところにイエス様を連れて行きました。ピラトはイエス様に何の罪も見当たらず、彼を釈放しようとしました。ところが、ユダヤの指導者たちとユダヤ人たちはさらに大声を出してイエスを殺せと言いました。暴動が持ち上がるこるのを恐れたピラトは、イエス様を十字架に処刑するようにと言い渡します。そして二人の強盗もいっしょに十字架の刑に処しました。

ユダヤ人たちがイエス様を非難していると、片方の強盗もイエス様を非難しました。しかし、もう一人の強盗は、イエス様を非難した強盗をしかりつけてイエス様には「御国に入られる時には、私を思い出して下さい」と願います。イエス様はその強盗を見ながら「まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイス(楽園(らくえん)にいます。」と言いました。

 

1.よく見ると、イエス様は誰かを救える境遇にありません。

イエス様自身も十字架にかけられているのですから、誰が誰を救うのでしょうか、それでもこんなイエス様の姿こそキリスト教の本質なのです。十字架にかけられて苦しみを受けているのはどなたでしょうか。神の子イエス・キリストです。これは変わらぬ事実です。十字架にかけられて侮辱と嘲弄を受けましたが、その方はイエス様であり、辺境の地にあるナザレで大工をしていたヨセフの子もイエス様でした。そして、クリスマスの日に飼葉桶に寝ていた幼子もイエス・キリストでした。この変わらぬ事実、イエス・キリストによって与えられる救いもまたどんな状況(じょうきょう)においても変わらない神の恵みです。そのため、私たちが受けた救いは、あったり消えたりするようなものではなく、貴重な宝石のように変わらないものです。

私の母は献金を捧げる時、神様に捧げるものなのだから、いつも新しい物を捧げなければならない、と言っていました。それで、いつも銀行に行って、新札に取り換え、献金を捧げていました。しかし、私は古いお札でもかまわないと思い、ぜんぜん気にしませんでした。千円がしわくちゃになって破れても、その価値が下がることはありません。しわくちゃになっても千円は千円のままです。イエス様がどんな状況に置かれようとも、イエス様という本質は変わらないため、十字架にかけられて侮辱され苦しみを受けても、罪人に救いをほどこすことができる力と恵みの神様なのです。もちろん、献金を捧げる時の私の母の心もまた大事なことです。

イエス様を信じ、救われた私たちもそうです。私たちがどんな状況に置かれようとも、本質的に私たちはクリスチャンのままです。ですから、周りの影響を受けてあっちこっちに流されるような存在ではありません。むしろ、揺れることなくしっかりと立って周りに影響を及ぼす存在なのです。私たちは聖霊様がおられる神の宮なわけですから、私たちの中に神の力があります。それで、伝道するときに、救いの力を伝えて罪人を救うことに用いられたり、先の見えない状況に置かれている人々になぐさめのことばを伝えるメッセンジャーとして用いられたりすることもあります。

そのため、私たちがどんな状況に置かれようとも自信をもって生きるべきです。人々はクリスチャンたちをあざ笑うかもしれません。あなたの神はどこにいるのか、神を信じているのにどうしてそんなに苦しんだ、と言うかもしれません。しかし、見た目は平気に見えても、実のところその心には悩みと憂いを持って生きる人とは違います。霊的にも内面的にも、強く信仰深い人になっていくのがまさにクリスチャンなのです

マイナスな外見ではなく救われた豊かなプラスの本質で生きていく人生こそが私たちの真の姿なのです。

 

2. 強盗は何もしていません。

死ぬ前に、イエス様に救いを求めただけでした。これこそが救いの本質です。行いによるのではありません。誇ることがないプレゼンのような恵みこそが救いなのです。 人は誰もが今よりも良い存在になることを願います。

2600年前にインドのカピラ王国の王子もその一人でした。そこで王子の地位を捨て、王宮を離れます。そして、菩提樹の下で修業を積み、人生における数々の問題から自由になれる道を悟ります。そして、彼は死んでからも崇拝される仏陀になりました。菩提樹の下で苦行をしている仏陀(シッダールタ)の彫刻像を見たことがあります。肋骨が丸見えになるまでやせていました。そうなるまで苦行に励んでいました。そこまでして人間の本質を見つけようと努力する宗教もあるのだなと感心したものです。もし、イエス様を信じていなかったら仏教を信仰していたかも知れません。仏教に似た宗教がインドにはたくさんあります。ただ東洋に影響を及ぼしたのは仏教だけでした。王子だったシッダールタが、王宮の外で目にした老いと飢えと病とに打ち勝とうと一生懸命努力する姿が魅力的だからです。多くの宗教が仏教の真似をしています。苦しい人生から自由になろうと、高次元的な人生を生きようと、自分のために熱心にその代価を払おうとします。そんな宗教に対する反応は救いのために努力するか、今の生活に満足して生きるかです。その中には、人間の欲望が入っています。それゆえに、偶像崇拝などの宗教は人の欲望から生まれます。

伝道をしていると、多くの人が似たようなことを言います。宗教というのはみな善良に生きようとするものではないか、と。宗教はみんな同じなのだ、と。特に、仏教を信じる人がそう言います。以前、ジュンヒを預ける幼稚園を決めるために、とあ幼稚園に行ったときのことです。そこの園長先生が、私たち夫婦が宣教師だと知ってこう言いました。「私たちはみな同じ宗教者ではないでしょうか。」それでまたもう一つは「私は犯した罪が多いので、はたしてイエス様を信じるだけで救われるのでしょうか。」ただ今の生活に満足しながら生きていきます、という話に聞こえます。

しかし、イエス様が与えになる救いは、多くの人が考える宗教の救いではありません。苦行をしなくてもいいのです。善良なことをして代価を払う必要もありません。目に見えませんが、生きて働いておられ、今も私たちのいのちを支配しておられる神様をありのまま認めることなのです。

イエス様の隣にいた強盗が自分の救いのために努力したことはただひとつでした。十字架にかけられた自分と同じ境遇にあるイエス様を神様と信じ、自分のたましいを託したことです。強盗が口にしたことばは、イエス様を神様と信じていなければ告白することのできないものです。それゆえに、救われるための条件は行いではなく、関係なのです。

私たちがイエス様を信じる条件は、2000年前の強盗がイエス様を見て告白した時と何ら変わりません。その時には、すべての人々から嘲弄され、十字架で処刑されるみすぼらしいイエスという青年を神様と信じられるようになることでした。今は、目に見える数多くの物質と文明に満ちた世界で目に見えない神様を信じられるようになることです。しかし、その強盗が信じた信仰によってイエス様が「今日、私とともにパラダイス(楽園)にいます。」とおっしゃったように、私たちもまた神様を愛し、賛美し、信仰を告白することによって神様の御国に導かれるようになります。とてもありがたいことです。

 

3.救いが行いによるのではないからといって、救いが軽いというわけではありません。

何の努力もしていないのに、信仰による告白によって救われますが、それが軽いというわけではありません。その救いの対価を支払うために最も苦しまなければならなかったお方がイエス様だからです。罪というものを単になかったことにしようと言ったからと言ってなくなるわけではありません。罪に応じて相応の代償を払わなければなりません。善悪を知る木の実を食べることは、神様との約束を破ることでした。神様は「それを食べるとき、必ず死ぬ」とおっしゃいました。しかし、この約束を破ったアダムとエバをすぐに死なせないために、神様は彼らに皮の衣を与えられました。エデンの園の動物が、アダムとエバの皮衣となるために血を流す代償を払うことになったのです。

またダビデがバテ・シェバと姦淫するために犯した罪悪は最悪です。バテ・シェバは、ダビデの勇敢で忠実な部下ウリヤの妻でした。ウリヤは戦場で命がけで国を守っていましたが、ダビデは王宮の屋上を歩き、王としての権勢を享受していました。その時、ダビデの欲望を刺激する女性を見て、王の権威をもってその女性をダビデの寝室に招き入れました。バテ・シェバは妊娠し、ダビデはそのことを隠すためにウリヤを戦場から呼び寄せ、バテ・シェバと一緒にいさせるようにと命じました。しかし、ウリヤは忠実な人で、自分の妻のところには行かず、ダビデを一晩中守りました。こんなにも忠誠心の強い人をダビデはどうしたでしょうか。自分の欲望の結果を隠すために、ウリヤを危険な前線に送ります。そのまま死ねと言うのです。おそらく、ウリヤはダビデのためにイスラエルのために、また神様のために死ぬ機会をくださったことに感謝したかもしれません。自分の死の理由がわかっていたらウリヤはどれほど悔しい思いをしたでしょうか。

神様はダビデを赦せませんでした。ナタンという預言者を遣わし、ダビデの犯罪を明らかにされます。ナタンという預言者がたとえを用いてダビデを批判しました。「ある人が羊と牛をたくさん持っていたのに、自分の客のために自分の羊と牛を捕まえず、近所の人の羊を奪って捕まえたのです しかしその飼い主はとても貧しく、この一匹だけの羊を自分の娘のように可愛がったと言います。 ところが、そのお金持がそのような羊を奪って自分の客のために捕まえたのです。」この話を聞いたダビデは、自分の罪に気づくどころか、かえって怒りだします。その人は当然死ぬべきであり、その貧しい人には4倍も上乗せして返さなければならないと言いました。

罪というのがそうゆうものなのです。溺れ、楽しんでいる瞬間だけを考えていて罪だという意識を持つことができません。預言者ナダンは「その人がまさに王様です」と言い、ダビデはその時になって自分が何をしたのかを知ります。 神様はダビデで自分の罪の代価を払わせました。バテ・シェバの間でできた子どもの命を取られました。これだけ罪に対する責任は大きく重いたいものなのです。そして神様は、ダビデとバテ・シェバに回復と治癒の子を与えられました。預言者ナダンはこの子の名前はエディデヤと名付けました。すでに名前が付けられましたが神様は預言者ナダンを送って直接名前を付けたかったのでしょうか。神様が愛したからです。エディデヤは神様から愛された者という意味です。その子がソロモンです。アダムとエバの皮の衣を着せるために犠牲になった最初の動物と、ダビデとバテ・シェバによってそのすべての罪の代価を負って生まれ、7日後に死んだ子のことを考えれば、罪の代価は決して軽いものとはいえません。そして私たちの罪のために地上に人間としてお生まれになったイエス様の十字架の死は、より深く重いものであり、神の恵みなのです。

この重い罪に対する責任が私たちにありますが、私たちにはその代価を払う力がありません。そこで神様はすべての罪の代価を払うために、ひとり子イエス・キリスト様をお遣わしになられました。クリスマスはそのイエス様が来られたことを記念する日です。クリスマスになると、私たちはサンタさんからプレゼントをもらうことも、お互いに感謝の気持ちを伝えることも、そしてその日に貧しく疎外された人たちを訪ね、助けることも一緒にできて喜ぶことができます。なぜなら、この日は空では栄光であり、地には神様が喜んだ人々にとっては平和の日だからです。しかし、一緒に必ず覚えておくべきことは、このように私の罪悪を背負うために来られたイエス様の恵みです。

お祈りしましょう


Since 2023/12/1 Updated 2023/12/10