○○
2023年 2月4日
主日礼拝

説教
主イエス様が来られてなされた御業

マタイの福音書4章23~25節

:4:23 イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。
4:24 イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。
4:25 こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った

車 孝振 牧師
♪
当日の説教


説教要旨

イエス様は私たちの罪を赦し、私たちを救うために地上に来られました。 そして、30年間静かに暮らし、30歳になったときから宣教を開始されました。そして33歳に、十字架につけられて死なれました。30年という長い時間に比べると、3年は短すぎるように感じます。

しかし、私たちの考えとは異なり、イエス様の3年という短い時間には意味があります。 それはイエス様がなされたことを見れば分かります。 また、イエス様の3年間のなされた御業は、弟子たちを通じて、そして教会を通じて受け継がれていきます。 今の教会は、まさにそんなイエス様のなされたことを続けているのです。 それでイエス様がなされたことは今私たちの教会がしていることでもあります。

1. イエス様は教えました。

イエス様の時代に教える人々をラビといいます。 彼らは聖書を教える人でした。 律法とイスラエルの歴史、そして詩編のように文学的な作品の聖書と預言者たちの預言書を教えました。 しかし、いつも自分たちの解釈を加えていたので、必要以上の過剰な解釈が教えられていました。 しかし、イエス様の教えは違いました。 人々はイエス様の教えに権威があると言いました。

これはその教え方が権威ある者と同じで、彼らの書記官と同じではないということだ(マタイ7:29)

それは当然です。 聖書には神のことばが記されていますが、イエス様自身が聖書の著者だからです。 その本来の意味を誰よりも明確に知っている方です。なぜならイエス様自身の言葉だからです。 だから権威があるのです。

「私が象を見た人を知っているから」より「象を見たから」と言った方が信頼できます。 何より象を見た人は、自信を持って確信に満ちた話を話すことができます。 しかし、象を見た人を知っている人の話は、確信よりは聞いた言葉の情報だけを伝えるしかありません。

当時のラビたちと宗教指導者たちがそうでした。 自分たちが聖書を書き記したわけではないので、伝え聞いたことを話すしかできませんでした。 だからおのずと本来の意味と違う解釈と文字通りの実践だけが教えられるようになりました。 ある人がイエス様を訪ねてきて、「律法の中でどんな戒めが一番重要ですか」と尋ねました。 その質問の中でも、すでに間違って教えられているのが見えます。 イエス様は二つの戒めで新たに律法に対する教えを教えました。 「まず、神様を愛しなさい」、「そしてあなたの隣人を愛しなさい」でした。 これが律法の最大の戒めだとおっしゃいました。 実際、この二つの大きな戒めの中には、律法の意味がすべて集約されています。 律法は神様を愛し、隣人と共に生きるために与えられた神様の心が込められているからです。 このような教えには権威がないわけがありません。 イエス様は自分の言葉を話し、ラビたちは他人の言葉を伝えたからです。 そして、他人の言葉でもその真心と意味に関心がなかったので、その当時のラビたちの教えには権威がありませんでした。

また、イエスはユダヤ人の会堂に行き、そこで教えられました。ユダヤ人の会堂は神殿を失い、色んな国をさまよったユダヤ人たちが自分の宗教的な暮らしのために建てたものです。 その後、ヘロデが神殿を建ててくれましたが、イスラエルのユダヤ人たちは依然として会堂に集まって聖書を読んで教えていました。  そこにイエス様は訪ねていき、人々にみことばを教えられました。 これも当時のラビたちとは違う姿です。 有名なラビであれば、弟子になりたい人たちが自分のもとを訪ねます。 イエス様にも弟子になるという人たちがそのみもとを訪ねてくることがありました。しかしながら、イエス様は先に人々を訪ね、そこで権威ある御言葉をもって人々を感動させ、弟子たちを呼び出しました。

これはイエス様が私たちを救い、導いてくださる方法とも同じです。 先に訪ねてきて私たちを呼びます。 私たちがイエス様を探す前に、先にイエス様が訪ねてこられました。私たちに問題が生じた時にも、イエス様は先に知って私たちを導く方です。

ところが、そんなイエスは今私たちの目に見えません。 聖書のえを直接聞くこともできません。 しかし、このすべてが今の私たちにも可能です。 聖書が私たちにあるからです。 聖書は神感によって記された神の御言葉です。 その容と意味とその果は今もいています。 また、私たちに教会えてくださいました。 教会はイエスえの上に建てられ、弟子たちとその弟子たちを通じて受けがれてきた共同体です。 それで教会の中ではイエス威ある聖書の御言葉がえられ、私たちの人生に大きな意味をえています。 そして、何より最も重要なのは、聖を私たちに送ってくださったからです。 五旬節の日に臨在された聖は、今も私たちの中にともにおられます。また皆さんと私を一つにしてくださいました。そして、聖書が神の御言葉で威を持つように、その時のイエスえと同じ威で私たちに悟りをえます。 私たちの礼拝の中で説教者の説教と聖書をむ私たち各自の生活の中で明確に御業がなされています。 それでその時のその威と感動が今も教会の中で持いてきています。 そして、私たちの教会にも聖の導きは聖書を通じていています。

2. 神様の御国の福音を伝えました。

イエス様の教えは神様の御国の福音でした。 イエス様が人々に教えられたみことばは、皆が神様の御国に関するものでした。 神様の御国は、私たちが死んでいく永遠の天国だけではありません。また別の世界、つまり神様だけがいらっしゃるところでもありません。この地上にいる今の私たちの人生に対する考えと心と態度に関する教えがまさに神様の御国に関する教えです。 なぜなら、イエス様が私たちにおっしゃったからです。 すでに神様の御国があなた方のところに来ている。神様の御国はただあなたがたの中にある、ということだったからです。 それでイエス様の教えは今この時代を生きている私たちに対する教えです。 そして、その教えが神様の御国の教えです。

マタイ福音書5章には、神様の御国に関する具体的な教えが記されています。 しかし、私たちが誤解しやすいのは、神様の御国の民になるために心が貧しくなるように努力しなければならないという思いがあることです。 イエス様は私たちに何をしなさいというDoingとしてではなく、あなたたちは神様の御国の民だ、という事実を確認(Being)してくださったのです。 このような教えは聖書のあちこちに出ています。 私はブドウの木です。あなたたちは枝です。あなたたちは世の中の光であり塩です。 それで神様の御国に行くために、どんな努力をしなければならないというのではなく、あなたたちがすでに神様の御国の民だからこのように幸せで楽しく暮らせるということを悟らせたのです。 私たちが私たちの存在に気づくと、私たちの人生は変わります。 私は映画が好きです。 時々、アメリカのアベンジャーズやバットマン スーパーマンのような映画を見たりします。 ほとんどの英雄が超能力を持っています。 しかし、そのような能力を持っているから被害を受けたり傷つけられたりします。 そうするうちに自分の存在に対する新しい悟りが始まり、本当の英雄としての活躍を見せてくれます。

だから自分がどんな存在なのか知ることが重要です。 それでこの地上に来られたイエス様は人々を先に訪ね、あなたたちは私が愛する私の民であり、神様の御国の民だ。 神様が愛する存在だ、悪い世の中の支配の下で苦労して生きる存在ではない、自由で価値があり尊い存在だ。 という自らに対する本当の存在をイエス様は教えてくださったのです。

そのように自分の存在を正確に認識して生きる人の人生には、生き方と態度が違います。 自分の人生が誰かの前の人生を継いで生きていると信じる人の人生と、神様の御国の民として尊い存在として生きる人生を生きる人の心構えと考えは明らかに違います。 これを世界観と言います。 私たちは知らず知らずのうちに世界観の支配の中に暮らしています。 サタンは偽りの世界観で私たちを支配しました。 有限な物質で暮らすようにだまして、一緒に暮らす隣人を敵と思って暮らすように私たちを衝動させました。 しかし、イエス様がいらっしゃって、このすべてを回復させました。 そして、私たちに「私たちは神様が造られた尊い存在だ」ということを教えてくださいました。 これがイエス様の伝えられた神様の御国の福音です。

3. イエス様は病気の者たちを癒されました。

ペニシリンという抗生物質が発明されるのが1928年です。 20世紀になるまで傷がつくと細菌に感染して死ぬしかありませんでした。 だから、それ以前の多くの人々がどれほど多くの病気で苦痛を受け、苦しんでいたでしょうか、イエス様が来られた2千年前にはもっとそうだったことでしょう。 それで病気の人たちが自分の病気を治療するために、やぶ医者に大金を払ったり、誤った伝説を頼りに無謀な行動をしたりもしました。 このような病気はなぜ生じたのでしょうか? 聖書の内容から推論してみると、私たちはもともと病気にならない存在として造られました。 しかし、エデンの園から追い出されたアダムとエバに与えられた環境は、以前の環境と変わっていました。 地面がアダムとエバによって、いばらやアザミを出す環境に変わりました。 その後、ノアの洪水によって自然環境は肉を食べなければならない環境にもう一度変化を経験します。 この中で人間の身体は自然に弱くならざるを得ず、色々なトラブルを持つしかなかったでしょう。 だから罪による環境の変化が私たちを老いて病気にさせたということです。

それでイエス様が来てなさったことが、この病人たちを治してくださることでした。 イエス様が病人を癒されたのは単純な奇跡ではなく、罪によって病気になっていく世の中に対する回復のメッセージでした。 それで弟子たちがイエス様に一人の盲人を見て、この人は誰の罪によって盲人になりましたかと尋ねると、イエス様は誰の罪のためではなく神様のことを表そうとすると教えてくださいました。 病気を治療してくださるだけでなく、病気に対する考え方や心構えも変わるように教えてくださったということです。 病気を神に対する呪いと思って恐れていた考えから、神様に向けた意志と希望に変えてくださいました。 時には病気を純粋に受け入れ、病気と障害を持ったまま生きていき、人々に感動を与える人もいます。 病気と死がこれ以上恐怖ではなく、治療と回復の希望に変えることができたのは、イエス様がこの地に来られて病気の人たちを癒しながら回復を教えてくださったためです。

今は医療技術が発達し、人の寿命も以前より長くなりました。 しかし、それでも医師たちはこう言います。 < 手術は医者がするが、いやすのは神様がする。>と言います。 今もなお、病気は神様の癒しが必要です。 それで、ヤコブの手紙にはこのように教えています。

14.あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。15.信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。16.ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。(ヤコブ5:14~16)

そして、医療技術の発展のおかげで数多くの病気が治療されていますが、現代にはまた別の心の病気が生じ始めました。 それで私たちは私たちの弱さを治すイエス様をより一層頼るしかないのです。 イザヤ書は私たちのために来られるイエス様をこのように予言しました。

神である主の霊がわたしの上にある。

1.貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、2.主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。3.シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。(イザヤ6113

イエスは30歳になってキリストとして公生涯を始め、自分についてイザヤ61章の予言で宣言して公生涯を始めました。

16.それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。17.すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。

  18.「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、

  わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、  虐げられている人を自由の身とし、19.主の恵みの年を告げるために。」

20.イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。(ルカ4:1620

ただイエス様の中で真の肉体と心の回復があることを私たちに知らせてくださったのです。

イエス様のこの3つの御業は、使徒と教会の歴史を通じて受け継がれています。 そして、これは私たちの柏シャローム教会にも受け継がれてきました。 私たちの教会が聖霊の能力が満ち溢れてイエス様の権威があるみ言葉の教えと神様の御国の祝福と癒しと回復が現れる教会になるように一緒に祈りましょう。

Since 2024/2/1 Updated 2024/2/3