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2023年 2月18日
主日礼拝

説教
主の衣に触れた信仰

マルコの福音書5章22~43節
  
5:22 すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、
5:23 こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
5:26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
5:27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
5:28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
5:29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
5:30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
5:31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
5:33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」
5:35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」
5:36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
5:37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。
5:38 彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、
5:39 中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。
5:41 そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42 すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。
5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。

車 孝振 牧師
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当日の説教


説教要旨

.初めに

生きていると、仕事がうまくいったり、いかなかったりする時があります。そのたびに、小さなことには小さい失望が、大きなことには大きな失望が伴います。

奉仕した前の教会には広い芝生がありました。その芝生の管理をするために、頻繁に水を与えなければなりませんでした。ある日、昼下がりに一時間ほど水をやったのに、その晩、大雨が降ったときには苦労がすべて無駄になったような気がしてがっかりします。また、早天祈祷会を終えて教会の玄関を出るやいなや、大雨が降りはじめ強風で傘が壊れてびしょ濡れになって家に着いたとたん雨が止んだりするときもそうです。そんなときには無性に腹が立ちます。小さいことには少しだけ腹を立ててやり過ごせますが、ときに大事なことにはあまりにも大きく心傷つき、悲惨な思いをしたりします。

今日、私たちが一緒にみていく聖書の中のある人物は、もしかすると、どうして人生がこれほど残酷なものだろうか、と苦しむ一人の女性です。それにもかかわらず、彼女は絶望に撃ち飲まれず、信仰によって不幸な人生を乗り越えていきます。

.聖書の物話

1. このみことばはヤイロという堂司の話から始まります。

堂司は、イスラエルのある都市や村の宗的·行政的指導者でした。その村ではかなり有力な立場にある人でした。そんな堂司であったヤイロの十二の娘が死にかけていました。ヤイロは娘を助けようと、時うわさになっていたイエスがおられるところにおもむきます。そしてイエスに「娘の頭に手を置いてお祈りをしてくだされば良いだろう」と言って、みずからイエスを家にお連れしようとします。ところが、その道中、まさにこの女性に出います

2.この女性はヤイロの家に行くイエス様の衣に触れました。

イエス様が当時の多くの病人たちを癒しておられましたので、人々はそんなイエス様を見るためにイエス様が行く所々に集まっていました。 会堂司ヤイロの家に行く道中にも、多くの人が集まってきて、その中にまさに今日この女性がいました。

彼女は12年間血が止まらない病を患っていました。その病気がどのような病気であるかははっきりしませんが、モーゼの律法にはこんなの病気を漏出物といって汚れている病気と定めていました。そのように汚れている病気にかかわった人は、必ずきよめの儀式を通して汚れを洗わなければなりませんでした。しかし、その血が毎日止まらないので、その儀式が無駄でした。そして汚れていたために、誰も近づこうとしませんでした。 汚れている人に会うと、その人も汚れてしまい、清めの儀式をしなければなりませんでした。それで、人々は彼女を避けようとしました。

ところでそんな女の人が大勢の人の前に出てイエス様の衣に触れると、病気がいやされました。イエスは足を止めて彼女を探します。そして、多くの人々の前で汚れていて、12年も病を患っていた、この女性の病が癒されたことを多くの人々に知らせました。

これが今日のみことばの話です。イエス様の衣に触れて病気が治ったこの女性の話は、彼女の信仰が持つ意味について述べています。

3. 彼女の信仰の意味

1)彼女の人生を通して、無駄な人生の本質を知ることができます。

今日のみことばに出てくる彼女の話をよく読むと、彼女は12年間も病を患っていました(25節)。そして彼女はこの病気を治すために多くの医者たちを尋ねます。しかし、苦しさだけが増して彼女の病気はもっと悪化していきます。そして彼女はこの病気を治そうとして、財産のすべてを使い果たしてしまいました。

お金をもらったのに、病気が治せない医師が悪者のように見えるかもしれません。しかし、よく考えてみると今から2千年以上前の医療環境は、今より良くなかったはずです。例えば、最初の抗生物質であるペニシリンは、1929年になってようやくフレミングによって発見され、大量生産が可能となり、医療現場に普及しました。ですから、まともな抗生物質さえ存在しなかった時代の医者たちでは、病気を治すことはできなかったはずです。医者たちにはその努力の代価を払ったはずです。また、彼女が医者に診てもらえたのは、ある程度裕福な人であったからに違いありません。彼女の努力にもかかわらず、治療方法は見つからず、医師に支払った代金のために、財産はますますなくなってしまいました。何も残らずただ苦しみだけが増す彼女の人生は、最善を尽くしたにもかかわらず、不幸になるしかありませんでした。そんな彼女を見て、私たちが気の毒に思いながら共感するのは、彼女ほどではないにしろ、私たちが人生のために努力したにも関わらず、努力したわりには良い結果に結びつかないところにあるのではないでしょうか。

より核心に迫って考えると、彼女の12年間の人生は私たちがイエス様を信じる前の人生と同じ意味があります。 いつも最善を尽くして生きようとするものの満足がなく、苦しさと不安だけ増すのが罪人である人間の本質的な人生です。 自身の人生の幸せのために持っているお金を使って、人々に会い、もっと高い目標のために努力して最善を尽しますが、そうして得たものは続かずに消えていくものです。

2)衣の裾に触れた彼女の信仰が見られます。

①まず、彼女の信仰は切実に思っていたことです。

28節を見ると、「あの方の衣に触れれば私は救われると思っていたからである」と記されています。この「思っていた」というギリシア語は、「絶えず繰り返して言う」という意味が含まれています。

彼女は本当に治りたくて、絶望の淵であろうとも、あきらめずイエス様のところに出向きました。しかし、病のせいで人々の前に出ることはできませんでした。それに、イエス様もまた立ち留まって誰かと話す余裕などありませんでした。ヤイロの娘の命を助けようと急いでいましたので、少しの猶予もありませんでした。それでも彼女は諦めず、最後まで思い続けます。そして、その方法を心の中で切実に思い返していました。「あの方の衣に触れれば私は救われる。あの方の衣に触れれば私は救われる。服にさわるだけでなおる……」数十回、数百回も心の中で思いながらイエスの衣に手を差し出したのです。

どんなにその心が震え緊張したことでしょうか。その姿に、彼女の切実さが感じられます。

毎日、早天祈祷会に来て祈ると、たくさんの祈祷課題がありますが、私も子どものいる身なので、ジュンヒとラウンのために毎日同じことを祈っています。私たちの子どもたちは外国で生まれ異邦人として生きていかなければなりません。信仰によって生きられるよう、神様が守り導いてくださることを願い、毎日そう祈っています。もちろん、私も知っています。一度祈れば、主はその祈りを聞き入れて応えてくださることを。牧師であり宣教師である私がそれくらいのこともわからないわけではありません。それでも毎日祈るのは、私が親として切実だからです。そして、そんな毎日のお祈りは、もっと神様を頼るようにします。そのような信頼がなくて毎日確認するのかと言わず、神様にもっと依り頼むことこそが、信仰の本質だと言えるでしょう。

そして、彼女のこのような姿を通じて、クリスチャンの切実な祈りが何なのか共感するようになりました。

②彼女は宗教的な限界にもかかわらず、それに打ち勝つ勇気がありました。(イエス様は彼女を公の場で回復させられました)汚れている病気にかかった彼女が急いで人を助けに行くイエス様を引き留めることはできなかったことでしょう。 もちろん、ある盲人はイエス様に直してくださいと叫びながらイエス様の御前に出てきたこともあります。しかし、宗教的な困難と状況が困難であるにもかかわらず、彼女は切実な思いでイエス様の衣に触りました。切実さは手を差し出す勇気が必要でした。それが叫ぶ人たちに比べれば小さな行動ですが、彼女には最善の勇気でした。どれほど緊張したことでしょうか。それでも諦めず、考えるだけでなく、手を差し伸べました。考えているだけの信仰は半分の信仰です。使徒ヤコブはさらに「死んだ信仰」と言いました。何でも手を差し出す勇気が必要な時があります。 おそらくそんな気持ちで負担を感じている時もあります。 それでも手を差し伸べましょう。

そうやって手を差し出したこの女の人は、病気が癒されました。そしてイエス様がこの女性を探し始めます。確かなことは、この女性を癒したのが、イエス様の衣ではなくイエス様ご自身です。 この女性が衣に触れた瞬間、誰がどうしてそうしたのかをイエス様が知らないはずがありません。何よりも、その女性を治したいと願っていたのはイエス様でした。 でも、「誰? 誰が触ったの?」と尋ねて探します。これにはイエス様の意図があります。この女性の病気が治ったということは、この女性がきよめられたことを意味します。しかし、それを証明する方法がありません。 確認できる病気ではないからです。 29節で病気が癒されたことを体に感じたというのは、特に治癒の変化があまり大きくないということです。 それでこの女性を呼んで多くの人の前できよめられたと公言しようと彼女を探しました。 そして何より、これが彼女の信仰だったという事を知らせようとしました。衣にそっと触れたとき、彼女はどうやら盗みをしたような気持ちだったのでしょう。 しかしイエス様は、これこそ認められるべき彼女の信仰だったということを話したかったのです。それで、34節にこのように説明して、

「イエスは彼女にいわれた。娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しみことなく、健やかでいなさい。」このようなイエス様の御言葉は、この本文を読む人々の慰めになっています。

3)彼女がイエス様に治療を受けたことは、根本的な問題の解決になりました。

福音書を読むたびに抱く感謝と恵みがあります。それはまさにイエスの細心な思いやりです。 大きくて偉大な奇跡を起こしたりもしますが、イエス様は私たちの内面の小さな痛みを見過ごされません。 ペテロがイエス様を3度知らないといいました。ペテロの挫折した心を癒そうと、イエス様は最初にイエス様に会ったペテロの熱かった恵みをそのまま再現してくださいました。 そして、焚き火の前でイエス様を3度否定したペテロに、同じように焚き火を前で「私を愛しているのか」と3度尋ねます。 何より、魚を取って帰ってきたペテロと他の弟子たちのために、その焚き火で魚を焼いていらっしゃるイエス様の姿こそ、一人一人の深い痛みも見過ごさず癒してくださった細心な思いやりでした。そんなイエス様が、小さいですがすごい勇気を持って衣の裾を触った彼女の12年間の痛みと手を差し伸べる勇気をイエス様は分かってくださって人々の前で完全に回復を証明し、あたたかい言葉で慰めてくださいました。 この女性が受けた感動と恵みは、自分のからだの癒しよりも深い根本的な治癒になったはずです。

この世の神はこのような繊細さと深い思いやりを真似ることはできません。 なぜなら、世の中のすべての神は、人間の欲望が作り出した産物だからです。 それで、捧げものを捧げれば祝福を受けるという人格のない自販機に過ぎません。

新約聖書の福音書を読むたびにこのような繊細なイエス様を見ながらいつも感動を受け、恵みを受け、慰めも受けます。 彼女のような姿でまた、ペトロのような姿でイエスに会った聖書の多くの一人一人の姿から私のような姿が見えたからです。

ヤイロのような村の有力な人や財産を病気で使い果たして人生の最も低いところで苦痛を経験している今日、本文の名前を知らない女性や差別なく接するこのイエス様を皆様も聖書を読んで必ず会って繊細な慰労を受けてください。

.終わりに

この小さな一人の心と勇気も見過ごされない方が私たちのイエス様であることを多くの人々に知ってほしいと思います。 しかし、この内容を扱う福音書には欠かせない独特な部分があります。 12という数字です。 ヤイロの娘は12才です。 そして今日本文の彼女の苦痛の時間も12年でした。

12というのは、神様の摂理や計画の成就を表す完全数です。 これはヘブル人が考える数字の意味ですから、新約聖書を書いた著者たちはこんな意味のある数字を上手に用いています。 数字の意味を考えながら読むと、ヘブル人を深く理解することができます。

それでは、完全数とは何でしょうか。それは、塩が多いとしょっぱくて、足りなければ薄いですが、ちょうどいい味の塩の量のようなものです。 それが完全に味をつけるので完全な量です。 こんな意味がある数が完全数です。それで12年を絶望で生きた彼女にイエス様はぴったりの味を出す完全数の神様であったのです。

コロナ禍の3年間、あまりにも憂鬱で大変な日が続いていましたが、彼女は私たちよりもっと長い12年を絶望のなかで生きていました。 しかしイエス様という福音を聞き、そして行って勇気を出してイエス様の衣の裾を触りました。 イエス様は彼女の信仰の勇気、また彼女が苦しんでいた12年以上の根本的な回復を彼女にくださいました。 それこそイエス様が私たちにくださる福音です。

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