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2023年 3月3日
主日礼拝

説教
学者の質問、イエス様の応え

ヨハネの福音書 3章 1~15節

3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
3:10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
3:12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

車 孝振 牧師
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当日の説教


説教要旨

みや心配事のない人生はあるでしょうか。住むところと住む姿は違っていても、自分だけのみや心配がない人はいないはずです。裕福な人は悩みや心配事がないでしょうか。お金持ちになったことがないのでよくわかりませんが、お金が多くて幸せそうに見える彼らも、心配があり不安な人生を送っていることを私たちはよく知っています。年が若ければ悩みと心配事がないでしょうか。

私の家に住んでいるジュンヒくんにも悩みがあります。一緒に住んでいる妹、ラウンちゃんとの関係です。一人で遊んでいたおもちゃをある日突然現れた妹と一緒に遊ばなければならないのは、本人に大きな負担のようです。 妹が嫌なわけではないので、妹が見当たらないと妹を探します。 しかしながら、自分のおもちゃを一緒に遊ぶべきかについてのジュンヒくんの悩みは、5歳だけど本人には大きな悩みです。

このように5歳児から死を目前にした老人に至るまで、人は直面する況と職業、そして人間係とライフスタイル(Lifestyle)によって、に多くのみと心配事を抱えながら生きています。そして、イエスを信じて救われたクリスチャンも、この世にいる限り、この世のみを抱えざるを得ないのです。しかし、イエスを信じるクリスチャンのみと信仰のないノンクリスチャンのみには、大きな違いがあります。信仰がない人たちのみは主に欲求と係するものが多いです。食べていく問題、何を着るのかという問題、そして どのような家で暮らしたいのかという問題のすべてが、基本的な欲求に対するものです。

このような欲求から、もう少し成熟した悩みは安定への欲求です。不安な況からけ出してこれ以上まずにむ人生でありたいと願うものの、ながら人はいつも不安の中で生きており、より安定した暮らし向きに変わることを期待しています。そして、安定的な欲求とともに、人々は自分の存在と価値を認められることを願い、承認欲求を満たそうとします。それを自己実現といいます。そのため、人は絶えず他人と比較し、自分をより良い存在として認められたいと願います。

しかし、このようなみにしてイエスは何を食べようか、何を着ようか心配するのはやめなさい、と言います。空中の鳥も、野花も神様が着せてくれて 受け入れられるとおっしゃっています。また明日のことを心配するなと言われます。その日のみはその日に十分だとえられました。そして何より神は私たちをまだ罪人であったときに愛して呼んで救いのみをくださいました。私たちをありのまま認めてくださって、愛してくださる方です。イエスは私たちにこのすべてのことより、神のとその義を求めなさいとえてくださいました。ですから、クリスチャンのみは、世の中のみとは違うものです。神のとその義を求めようとするみと心配があります。

今日聖書に登場するニコデモというユダヤの律法者も、イエスのもとを訪れます。みがあるからこそ深い夜、人の目を避けてイエスいにたことでしょう。彼のみの容とイエスの答えは何でしょうか イエスがニコデモにえてくださったえの意味を一に話そうと思います

1. 夜にイエスを訪ねてきたニコデモの質問にする話です。

今日、一んだヨハネの福音書には、イエスのもとに訪れたニコデモのみがでてきます。ニコデモのみはおそらく者としてのみだったでしょう。しかし容からすると、彼が何を知りたがっているのかがはっきりとわかりません。 なぜなら、彼が質問をしていないからです。しかし、彼はパリサイ人であり、律法者であり、ラビであったため、彼の人生の領域には、常に神の律法と永遠のいのちにする心配があったはずです。と言うのも、イエスのもとを訪れたあるお金持ち年とニコデモとが似ているからです。その年の質問は、永遠のいのちを得るために何をしたらいいのか、についてでした。どうすれば永遠のいのちを得ることができるのかと尋ねた お金持ち年の質問にイエスの答えは「律法を守りなさい」でした。その年は、堂々と「すべて守ってきました」と言います。本にそうだったのでしょうか。おそらく、その年の基準には律法者たちが決めたいくつかのマニュアルを守ったということだったのでしょう。しかし、すべてがマニュアルの中には入っていませんでした。

(役所に行って、あれこれ聞くと、職員たちが「ちょっと待ってくれ」と言ってどこかへ行きます。そして、他の職員たちと一にあれこれ書類を見ながら意見を交わし、その後。解決方法をえてくれることもあります。なぜかと考えてみると、私たちが外人だったので、いつも日本人にする馴染みのあるマニュアルではないからです。マニュアルの指示と違う況が起こると、慌てて対処するのに時間がかかります。そのため、役所に行く日は、午前や午後に別の約束をしないようにしています。)

律法をすべて守ったという年にイエスは「あなたに一つ足りないものがあります。そのためにあなたの財産をすべてって貧しい者に分けえなさい」というマニュアルにないことを言われます。するとその年は失望してっていきました。

自分が実践したあのユダヤ先生たちのえと同じマニュアルになかった容だったので慌てもしたと思いますが、一番核心なのは自分の貪欲によってイエスえてくださったことをやりたくなかった、という点です。それからイエスは弟子たちに話されました。金持ちが神のに行くよりラクダが針の穴を入るほうが易しいと言われました

また、パウロ先生はこういいます。律法は、我が罪人であることを悟らせる養育係のような役割をするだけで、律法を守ったからといって、救われることはないと教えてくださいます。

律法によって神の義を至ることができないのに、律法を厳格に守ろうとする理由は、その時代のユダヤ人たちが神を捨てて、律法一つだけをしていたからでした。そして、その律法は自分たちの存在理由を確認させることのできる道具でした。それで、モセに律法をえた方が、すぐ自分たちの前にているのに、彼らは認めませんでした。自分たちの律法で作られた自分たちだけの世界に閉じこもって、他人を非難し、罪に定め、自分たちだけが聖なると考え、自分自身を騙してきたのです。

ニコデモも、自分たちがつくった律法というりの世界に閉じめられ、自らをだまして生きていく者に過ぎませんでした。

あのような人たちには、いろんな種類の人がいますが、代表的な人たちに聖書を勉し、博士までしたにもかかわらず、イエス教訓だけを信じてイエスを信じなかった神者たちです。それだけでなく、牧師なら宣師なら犠牲的な人生を生きるという間違った考えによって自らをだます場合もあります。それでも、ニコデモはイエスを訪ねてきました。それが最も重要なことです。 イエスのみもとに出てたら、化は始まるからです。

2. ニコデモに向けたイエスえは本質的なものでした。

事実、ニコデモの質問がどんなものなのか知りませんが、イエスの答えをみれば、ニコデモがどのようなみと質問を持ってイエスのもとにたのかが分かります。 すぐに3節、人が新しく生まれなければ神のを見ることができない とおっしゃるのです。その金持ち年のみのようなものでした。

彼らの言う律法は、厳密に言えばモーセが神様から受けた聖書の律法とはかなり異なります。彼らはモセが受け取った聖書の律法を解釈して、具体的な実践方法まで細かく書いて613実践項目にまとめえていました。 それでも、この613項目では説明切れない部分もありました。それで明と適用の本もあったといわれています。 このために解釈をし、指導する人がまさに先生、ラビでした。使徒パウロがんだというガマリエという律法者は、数多くのラビの613の命令に対する解釈をまとめ、集大成した大学者だったのです。

しかし、律法にするイエスえは613項目ではなく、たったの二つでした。 まず、主なる神を愛すること、心と思うと命をかけて愛することです。そして、2つ目はその愛で隣人を自分の体と同じように愛することです。 神を愛し、隣人を愛しなさい、というたった2つでした。 なぜなら、神がモせにえた聖書の律法が本そうえているからです。

3. ニコデモに新生と聖霊についてえられました。

ニコデモはすぐイエスに何か質問をしませんでした。 彼はイエスが起こした奇跡について神様から 遣わされた 人でなければ できないとイエスを認めました。このようなニコデモへのイエスの答えは、新しく生まれなければならないということでした。

イエスのこのような独特な話し方はとても直観的な話し方です。人が何かを話すときには、そのうちに本心がされています。

スカラというサマリアの町の女性は自分の痛い過去と傷が隠されていて、桑の木にのぼったザアカイには真実をもって生きる者にわりたいという欲求が隠されていました。ニコデモには、律法の限界や永遠の命への好奇心が会話の中に秘められていました。

ヨハネの福音書では、このような人された面の問題にしてイエスは、簡単で直観的な対話で各自の問題を取り出します。体面のせいで自分の社的地位のせいで傷と痛みのせいで自分の職業と人々の外面のせいで勇気を出して話ができない根本的な問題を、イエスは直接的に話されます。「行って、あなたの夫をここにんでなさい」「桑の木から降りてい」「私はあなたの家に今夜泊まろう」。そして律法を通してどうやって神のに行けるのかというニコデモの心のを、イエスはご存知でした。そして今も皆さんの持ちを分かっています。

ニコデモのこのような心の問いに、イエスは新しく生まれなければ神に行けないと答えられました。 新しく生まれるというのはどうゆうことでしょうか。ニゴデモの言葉のように一度死んで生まれわることを意味するのですか。ニコデモは母胎にまた入ってから出てくるのですか、と聞きます。ここまでがニコデモの限界です。

そして、イエスは最も本質的な福音をえてくださっています。水と御霊によって新しく生まれるということです。水はバプテスマを意味します。バプテスマは罪を赦されたものです。汚れた罪を水でめる儀式です。しかし、もっと本質的なことは御によるバプテスマです。の救いを的によって悟り、信仰の意志が生じるという非常に本質的な聖霊きです。しかし、このすべてが示唆しているのは、新しく生まれるための死、すなわち十字架のイエスの血と死を意味します。

私たちは皆、二千年前のイエスと共に十字架につけられ、共に死にました。イエスの死が私の死であり、それでイエスの復活が私の復活になったのです。

律法はまさにこのことをえているのですが、彼らはそのことにづきませんでした。 知っていると言っても、認めませんでした。彼らは救われたい のではなく、律法を守る行為を認められたかったからです。しかし、ニコデモやユダヤ人お金持ち年は知ったはずです。律法では足りないということを悟ったのです。 そこで彼らはイエスを訪ね、イエスは福音を話しますが、自分の限界に閉じめられてけ出すことができませんでした。

しかし、福音が聞こえても 自分が置かれた環境、年齢、経験とこり固まった思考によって福音を理解し受け入れるには、聖霊様の助けが なければなりません。霊様が導かなければ救いのみはわかりません。「もし、キリストの御を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」と使徒パウロは言いました。

ですから、水と御によって新しく生まれなければ、神のを見ることはできません。 救いは何らかの行動で対価うのではなく、キリストの血潮の恵みを信じて受け入れる信仰で可能なのです。

4. ニコデモはどこへ行ったんでしょうか

その後、イエスは救いのみと神の愛について話されます。そうしているうちに、ニコデモは徐々に消えてしまいます。彼がどんな反応をしたのか、ニコデモはどうなったという明もなく、バプテスマのヨハネの話が始まります。 しかし、こんなにい夜だとしても、イエスを訪ねてきたニコデモの話は聖書の他の部分に現れて、彼のこの質問と出いが意味のないものではなかったことを示しています。ニコデモはヨハネの福音書7章にイエスを捕まえて罪なく宗教裁判に引き渡すとする人々に、「律法は人の言うことを聞いて、その行いを知る前に審判しない」とし、律法のの意味でイエスを弁護しました。そしてイエスの葬式をしてくれたアリマデヨセフと一にした人もニコデモでした。伝承によるとニコデモは、自分の財産を売って貧しい人に分けえ、殉教したそうです。深夜、自らの限界を認め、イエスを訪れたこの求道者に聞かせてくださったイエスの福音は、彼の人生を化させました。

Since 2024/2/29 Updated 2024/3/1