○○
2023年 3月17日
主日礼拝

説教
時が来ました

マタイの福音書 26章 36~46節

26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
26:42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
26:43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
26:44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

小町誠一 牧師
♪
当日の説教


説教要旨

■ゲツセマネで祈る
36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

イエス様と弟子たちは、過越の食事、最後の晩餐を終えて外に出ました。オリーブ山の近くにあるゲツセマネという園にイエス様と弟子たちは向かいました。エルサレムの町中から離れたこの場所は、祈りの場として、イエス様たちがいつも使っていたところでした。
真夜中になっていましたが、通いなれた道でしょう。イエス様たち一行(イエス様と11人の弟子たち)が月明かりをたよりに、その場所にやってきました。

37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。

すでにイスカリオテのユダは最後の晩餐の席からイエス様から離れていました。ユダは、イエス様を捕まえようとしていた長老、祭司長のところに行って、銀貨30枚でイエス様を売ったのです。ゲツセマネの園でイエス様がいつも祈っていたことをユダが知っていて、ユダの手引きによって、まもなくここに、長老、祭司長たちから差し向けられた群集たちがやってこようとしていました。そのような緊迫した状況の中での、イエス様の最後の祈りでした。イエス様は、このときまで、まだ心が揺れていたのです。イエス様は、父なる神様祈ろうと、園の奥深く入って行かれました。

■この杯をわたしから過ぎ去らせてください
38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」

イエス様は、これほどの悲しみはない、という絶望的なまでの悲しみに襲われていました。イエス様の生涯で、このようなことはなかったでしょう。イエス様は、人のために同情し悲しむことはあっても、自分の弱さ、心の心情を嘆くことはありませんでした。それを、弟子のペテロたち3人に告げたのです。
イエス様は死を前にして、人間としての悲しみを、苦しみを、弱さを味わわれたのです。一つは死の恐怖でした。それと、全人類のすべての罪を背負われ、それに対する刑罰をただ一人で受けられるという押しつぶされそうな苦しみでした。
罪なきイエス様と父なる神様との関係は、親しく保たれていました。しかし今や、イエス様は罪ある者とみなされ、罪にのろわれた者となり、神に捨てられることになるのです。神のさばきにあうことの恐怖でした。これが罪ある人間の現実でした。

39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」

イエス様は一人になられ、ひれ伏して祈り始めました。それは、人々が罪を犯し、赦しを請う祈りの姿でした。イエス様が罪人になられて、神の前に出たのです。ルカには「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ22:44)とあります。
イエス様は祈られました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」
杯は全人類の罪に対する刑罰を表していました。「できることなら」は、「あなたさまは、おできになるお方ですので」という訴えです。「わたしから過ぎ去らせてください」は、経験しなくてもいいように、です。それがイエス様の切実な願いでした。間近に迫った十字架を、できるものなら避けることができるように、とイエス様は祈りました。
しかし、神様の答えは沈黙でした。ここから、神様は沈黙します。十字架にかかった時も「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでも、神様は沈黙します。
イエス様が地上にお生まれになる前、天で父なる神様と共におられたとき、父と子の親しい交わり、同じみこころの中におられました。イエス様は、いま沈黙を通して父のみこころを知らなければならなかったのです。しかし「杯は過ぎ去らせよう」とも、「それを受けるように」とも、神様はおっしゃらなかったのです。神様の答えは沈黙でした。
そこに、罪を罰しなければならない神の義の厳しさ。しかし同時に、人間を滅びから救いたいという神様の愛。それには、愛するひとり子を十字架の苦しみに会わせなければならない。その父なる神様の葛藤、悲しみ。そのような神様のみこころ、神様の沈黙にイエス様がどう答えるのか。それがこのゲツセマネの祈りでした。
祈りは1時間ほど続きました。イエス様が、最後に行き着いた祈りが「あなたが望まれるままに、なさってください」。すべて神様のみこころ、ご意思に従おうとする祈りでした。
苦悩から救ってくださいという切なる願いでしたが、それが、自分の意思ではなく、神様のご意思、みこころがなりますように、という祈りに変えられていったのです。
イエス様は弟子たちのところに戻ってきました(40節)。弟子たちは、いつの間にか眠っていました。イエス様が起こすまで気がつかなかったのです。ペテロに言われました。「わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。」

41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」

イエス様は、ペテロたちの心は燃えていることはご存じでした。そして肉体は弱く、疲れていることをご存じだったのです。「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」(ルカ22:45)。イエス様の祈りを聞きながら、ペテロたちも悲しみに襲われ祈っていました。とこらが彼らは悲しみの果て、耐えられず寝てしまったのです。
イエス様は2度目の祈りに入りました(42節)。イエス様は、父のみこころを確信しました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」という1度目の祈りから、「わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と変えられていったのです。イエス様は、十字架以外に救いはないことが神様のみこころと確信され、十字架の死を受け入れました。
イエス様は2度目に戻ってこられました。弟子たちは眠っていました(43節)。イエス様は3度目の祈りをされるために入っていかれました。確信が与えられた3度目の祈りは書かれていません。あなたのみこころを受け入れます、という感謝の祈りであったでしょう。すでにイエス様は、祈りによって勝利と平安を得ていたのです。

■時が来ました
45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。

「時が来ました。」十字架で贖いが成し遂げる時が来ました。イエス様は、なおも弟子たちを励まし、共に行かれようとされました。眠ってしまったような弟子たちを、最後までイエス様は見捨てず共に歩もうとされました。
しかし、剣や棒を持った群衆がイエス様を取り巻き、捕えようとしたとき、弟子たちは逃げ出してしまいます。勇敢にも、捕らわれたイエス様のあとをついて行ったペテロは、イエス様を知らないと、3度も裏切ってしまうのです。しかし、主だけが、そのような弟子たちのために、私たちのために十字架への道を赴いて行くのです。

Since 2024/3/17