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2023年 3月24日
主日礼拝

説教
イエス様が十字架につけられた

マルコの福音書15章33~47節

15:33 さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。
15:34 そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」
15:36 すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」
15:40 女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。
15:41 イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。
15:42 さて、すでに夕方になっていた。その日は備え日、すなわち安息日の前日であったので、
15:43 アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。
15:44 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。そして百人隊長を呼び、イエスがすでに死んだのかどうか尋ねた。
15:45 百人隊長に確認すると、ピラトはイエスの遺体をヨセフに下げ渡した。
15:46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。そして、墓の入り口には石を転がしておいた。
15:47 マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。

車 孝振 牧師
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当日の説教


説教要旨

イエス様が十字架につけられた

マルコの福音書15章33~47

今週は受難週です。 イエス様の十字架の死と苦難を覚え、記念する一週間です。各教会では、イエス様の十字架の恵みと苦難を受けたイエス様について説教し、ある人々はこの期間断食しながら一週間を過ごしたりします。 私が韓国で教会の中学·高校生を担当していた時には、メディア断食ということをしました。 一週間テレビを見ない、スマホを見ない、コンピューターをしないなど、メディアで楽しむことをしばらく中断することでした。 誓約書を作成し、一週間メディアを視聴しないことを宣言するパフォーマンスも行いました。 そしてメル·ギブソンが作った「ペーション·オブ·クライスト」という映画が出た時には、韓国の教会は映画館に団体で観覧に行ったりもしました。 皆さんは苦難の週間をどのように過ごそうとしているでしょうか。 この一週間だけでもイエス様の苦難を覚え、感謝しながら過ごすなら意味があると思います。 ただ、イエス様の十字架の恵みは毎日私たちに与えられる恵みであり、感謝と賛美を捧げることです。 それで一年中、今週一週間だけではなく、毎日がイエス様の十字架の恵みと感謝があることを願います。今日のみことばは、イエス様の十字架の苦難の内容が記録されたマルコの福音書15章の中でイエス様の十字架の道に会えた人々に対する話をしようと思います。 そして、その人たちの話が受難週にどんな意味があるのかをご一緒に考えてまいりましょう。

1. まず、イエス様を殺そうとする人たちについての話です。

夜が明けるとすぐに、祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと最高法院全体で協議を行ってから、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。 (マルコ151

イエス様を殺そうとする人々は、悪人ではなく宗教指導者たちでした。 特に、律法学者たちは今日で言うと、聖書を研究する神学者でした。 また、長老たちもいました。 だから牧師たちと神学校の教授たち、そして長老たちが集まってイエス様を殺そうとしたといえます。 あきれることです。 誰よりも聖書に精通し、誰よりもイエスをキリストとして仕えるべき人々がイエス様を殺すことに対して、先頭に立ったということです。 さらにイエス様を捕まえようと夜明けに行動するほど熱心さを見せました。 そしてまた、彼らは自分たちの行為を正当化するために法と行政手続きを駆使しました。 自分たちがイエス様を直接殺さず、当時イスラエルを支配していたローマの総督であるピラトにイエス様を渡して死刑させようとしました。 (他の福音書では、ピラトがイエス様を殺すことを嫌ってヘロデにしばらく押し付ける内容も記録されています。 もちろん、ヘロデもピラトに再びイエス様を送ります。 ルカ福音書236~12節。)また、民心を動揺させ、イエス様を十字架で殺すようにピラトを圧迫することまでします。 ちょうど人々がエルサレムに集まる過ぎ越しの祭りでした。

彼らは、用いられる限りの権力と計略と熱心を尽くしてイエス様を殺そうとしました。 なぜでしょうか。 イエス様の存在が自分たちに脅威になると感じたからです。 自分たちが宗教的な指導者として享受していたことがイエス様の登場で奪われることを恐れていたからです。 そのような恐れは、イエス様が誰なのか、本当にキリストなのかに対する本質的で真実な質問より、自分たちが守って教えようとした誤ったことがイエス様によって指摘され、頻繁に論争で反論できないイエス様の答えで崩れることに怒り、恐れました。 彼らにとって信仰は宗教的な形式に過ぎず、聖書は自分たちの権力を維持するための手段でした。 一言で言って、本当に神様に対して関心がない人たちでした。 関心があったのなら、ニゴデモのようにイエス様が語る真理に対する答えを聞こうとしたはずです。 しかし、彼らは自分の貪欲と欲で真理を捨て、自分たちの権力のために自分たちの力と権力、そして政治力を使って民衆を扇動し、イエス様を十字架につけさせました。

私たちは、彼らのそので汚い行動を見て、どうすればあんなことができるのかと批判することができますが、際、私たちの面を見れば、彼らとわらないされたが存在しているということを目にします。 イエスを困難にれ、そのえを攻しようとした宗指導者たちが姦淫の場で捕らえられた女をイエスに連れてきて判を下してほしいと言いました。 モセの律法どおりに石で打てと言えば、これまで互いに愛せよと言っていたイエスの破格的なえはりになり、ただ許せばモーセの律法を破る人になるので、ユダヤ人の先生になる資格を失うことになります。 このような計略でイエスを苦境にれようとした時、イエスはあなたたちの中で罪のない者が先に石を投げなさいと言われました。 すると年長者から石を置いて現場を離れ始め、そこには誰もいなくなりました。 年長者から若い人に至るまで、さらに子供たちまで一点恥ずかしい罪がない人はいないからです。

私たちがあんない奴らだと者を非難しますが、は私たちもで貪欲な人たちです。 ロマでは人に罪のない義人はいないとえています

イエス様を捕まえようと夜明けから熱心に出て、すべての権力と行政と法を持ってイエス様を殺そうとしたその邪悪な祭司長たちと律法学者たちと長老たちの姿は私たちの罪悪な姿を見せる鏡のような存在です。

しかし、イエス様はこれよりも大きな愛で私たちを覆いました。 十字架で釘を刺された時、イエス様は苦痛の中でも私たちのために祈りました。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。(ルカ2334 )

このすべては何のためだったのでしょうか。 先ほど話したヨハネの福音書の姦淫で捕まった女に対するイエス様の御言葉を一緒に見ながらその解答を考えてみましょう。

10.イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」11.彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕 (ヨハネの福音書81011

2. 二つ目はイエス様と一緒にした人々に関する話です。

イエス様が十字架につけられたところは、ゴルゴタという丘でした。 ピラトがいたところからゴルゴタというところまでイエス様は重い十字架を直接背負って歩いて行きました。 そして、ゴルゴタの丘で両手と頭髪に釘を刺され、ゆっくりと血を流し、苦痛の中で死んでいく刑罰を受けました。 イエス様が息を引き取られ、墓に葬られるまでイエス様のそばで共にした人々が聖書には記録されています。

まず、クレネ人のシモンです。 彼は北アフリカ地域から来た異邦人ユダヤ人だったと思われます。 過ぎ越しの日には、各地域に住んでいたユダヤ人男性たちがエルサレムに来なければならないという規範を守るために、シモンとその二人の息子は遠くから来たはずです。 ところが、その父と息子たちがエルサレムに来た時がまさにイエス様が十字架で処刑される日でした。 すでに人々に有名になったイエス様を見るために、シモンも息子たちと一緒に街に出てきたはずです。 ところが十字架を背負っていたイエス様が倒れ、イエス様を引っ張っていったローマ軍の兵士たちはシモンを見て呼んで十字架を代わりに負わせました。 無理やり十字架を負いましたが、この事件はシモンとその家族に大きな変化をもたらしました。  家族全員がイエス様を信じて救われたのです。 アレクサントロとルフォスというシモンの息子たちの名前が聖書に記録されたことは、彼らが初代教会の構成員としてよく知られたことを意味します。 ローマ書1613節には、パウロはこのルフォスの母親を自分の母親と呼ぶほど愛情と尊敬を表しました。 望まず、無理やり十字架をつけましたが、突然与えられた困難はむしろ恵みになることを物語っています。

そして、イエス様と一緒に十字架につけられた二人の強盗がいました。 ある強盗は死ぬ瞬間までもイエス様をからかって呪いましたが、もう一方の強盗は自分の罪を深く悔いて、自分の魂をイエスに頼っていました。 死をすぐ前にしてイエス様に自分の魂を託したこの強盗にイエス様は永遠の天国でイエス様と共にいることを約束してくださいました。 強盗の悔い改めと救いは、彼の誤った過去の罪悪よりイエス様の恵みがより大きいということを示しています。 そしてイエス様の十字架の席は本来バラバという強盗の席でした、イエス様が十字架につけられることでバラバが釈放しました。 私たちは皆、バラバのようなイエス様のため永遠の地獄の刑罰から救われた存在です。

もう一人は百人隊長です。 彼はイエス様が息を引き取られる姿を見ながら、この方は本当に神の子であったと告白した異邦人でした。  そして、その場には最後までイエス様の苦痛を見ながら一緒にした女性たちがいました。 イエス様の母マリア、悪霊を追いかけてくださった恵みを受けたマグダラのマリア、ヤコブとヨハネの母マリアとサロメという女性たちでした。 その女たちはイエス様を通じて恵みを受けた人々です。 女性の人権が保障されなかった時代に、イエス様は彼らを尊重し、彼らの困難を見守ってくたさいました。 彼女たちはその恵みを受けたので、感謝の心でイエス様が十字架で亡くなるところまで一緒に行きました。

そして最後にイエス様を葬った人々です。 祭司長たちと律法学者たち、そして長老たちの威嚇にも勇気を出してイエス様の体を出してくれと要求したアリマタヤ出身ヨセフとそのすべての過程を共にいたニゴデモがいました。

エス様の十字架の道は苦痛で寂しい道でしたが、イエス様に向かって善良な心を持って最後まで共にいた人々もいました。 皆がイエス様から受けた大きな恵みがあり、人生の変化があった人々です。 十字架にイエス様が無気力に亡くなるのを見て残念な気持ちを持つしかありませんでしたが、イエス様の復活はこの人たちに大きな喜びと希望の便りになりました。

私たちは皆、祭司長たちと律法学者たち、そして長老たちのように根本的に邪悪な心を持った罪人です。 しかし一方、神様は私たちの中に良心と善良な心に向けた渇きを残しておきました。 イエス様の十字架は、到底どうしようもない邪悪な心を直して回復させ、善良な心で渇望する私たちの人生に神様に会える恵みを与えて下さいました。

それでイエス様の十字架は大きな罪悪から救われた感謝を持って生きていくようにします。 それはまるで呪いと刑罰の象徴だったその恐ろしい十字架が恵みの象徴に変わり、全世界の人々にキリスト教信仰を意味するようにしたのと同じです。 イエス様を信じなくても世の人々はその恐ろしい死刑道具である十字架をイヤリングやネックレスで飾ったりします。

また、義に渇いて善良な良心で生きていこうとする人々が、この世で常に挫折を経験するしかありませんが、神様に直接会って礼拝できるようになり、その渇きを解決できるようになりました。 イエス様が息を引き取る時に、聖所と至聖所を隔てる幕が裂けられました。 今は誰でもイエス様の血を頼りに大胆に神様に進むことができるようになったことを見せたのです。 それで誰でもイエス様を信じて救われる道が開かれました。

今週一週間はどんな心で受難週を過ごされますか。

苦難の中で苦しむイエス様の悲しい姿だけにとどまらず、大きな恵みと回復をくださるために喜んで十字架の苦痛に耐えられたその恵みに感謝し、喜びをもって賛美する一週間になることを祈ります。

Since 2024/3/24 Updated 2024/3/25