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2023年 3月31日
主日礼拝

説教
あの方はよみがえられました

マルコの福音書16章1~8節

[ 16 ]
16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。
16:5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。
16:6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。
16:7 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」
16:8 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕

車 孝振 牧師
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当日の説教


説教要旨

1. 亡くなったイエス様を訪ねてきた人々

まずお話ししたいのは、亡くなったイエス様を訪ねた人々についての話です。

さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。(マルコ16:1)

マグダラのマリアとヤコブとヨハンの母親マリア、そしてサロメは、すでに15章にイエス様の亡くなる現場まで一緒にいた人々です。 そして、彼女たちは皆、イエス様から受けた愛と感謝のある人々でした。 弟子たちが皆逃げて散らばったのと比べると、彼女たちがどれほど勇敢で、そしてどれほど献身的であるかがわかります。 そして、この短い箇所にも彼女たちの勇気と献身はよく表れています。

まず、彼女たちは安息日が過ぎるやいなや、イエス様が葬られた墓を訪ねてきました。亡くなる瞬間、遺体に手を出すことは葬儀をするためにある程度許されましたが、死後3日目も過ぎた遺体に近づくことはユダヤの慣習とモーセの律法によって禁止されていました。それでも油をぬるために安息日が終わるやいなや一緒に亡くなったイエス様が葬られたところまで行こうとしたのは、当時のユダヤ人たちの宗教的な風習と文化の限界を跳び越える勇気と献身がなければならないことです。 また、死んだ死体に香油を塗るのは貴族や王族ができることでした。 それだけ香油は高くて、塗るのにお金がかかる仕事でした。 経済的な負担を喜んで払いながら、彼女たちは喜んで香油を準備し、イエス様の墓に行きました。 また、ユダヤ人の宗教指導者たちはイエス様が本当に復活するかもしれないと思い、警備兵に墓を守らせました(27:62~66)。それで彼女たちがイエス様が葬られた墓に行くということ自体が難しいことであり危険なことが起きるかもしれませんでした。 それでも彼女たちは夜明けに香油を持って3日も過ぎたイエス様の遺体に香油を塗るために勇気を出して墓に行きました。  イエス様の深い愛と恵みがこのすべてを可能にしたのです。

キリスト教信仰の中には、このようなイエス様に対する人格的な反応があります。 その方が私たちに見せてくださった恵みと愛のために、喜んで困難さえ受け、恩返ししようとする気持ちがあります。 だからキリスト教信仰は神様との人格的な関係があるのです。 まるで父親と子供、夫婦の愛、子供に対する心、良い友人と隣人に対する感謝の気持ちのようです。 共にいる人々に良いものを分かち合いと思う気持ちです。 傷ついて捨てられた人生だと思っていた彼女たちに、手を差し伸べて下さり、一つの人格体として認めて下さったイエス様に対する感謝と献身の心は、夜明けに困難な道を進む勇気を与えました。 そこで、到着した現場では驚きの話を聞き、感激するような恵みを経験することになります。  まさに復活のイエス様のお知らせでした。

2. 空いているお墓に関するお話です。

夜明けにイエス様を訪ねた彼女たちには、イエス様に対する愛と献身の心がありました。 しかし、彼女たちの姿はその献身と愛にもかかわらず、私たちが持っている明らかな限界もあることを示しています。 それは彼女たちが持っていった香油と彼女たちが言った言葉から察することができます。 まず、彼女たちが持っていったものは香油でした。 もともとユダヤ人は葬儀をする時に香油をあまり塗らないと言います。 高かったりもしましたが、暑くて乾燥した天気のために死体の腐敗が速く進行するので、香油を塗る理由がないからだそうです。 それで、彼女たちが香油を持って行ったのは普通ではない行動です。 それでも彼女たちの心には、イエス様の死体が腐って臭いがしないようにしたいという気持ちがありました。 その心は本当にありがたく、貴重なものです。 しかし、イエス様は十字架で亡くなる前に、三日目に復活すると言っておられました。 彼女たちはそのようなイエス様の約束より亡くなったイエス様に対する悲しみの気持ちと遺体が匂うのではないかと心配する気持ちの方が先んじていました。 イエス様を愛し、すべてを献身しようとする心が誰よりも大きかったものの、彼女たちの愛にはどうすることもできない人間的な限界がありました。 そして何よりも彼女たちの一番の心配が、まさに墓の入口の石を誰が転がしてくれるかということでした。 イエス様の復活について、私たちは自然に信じて使徒信条で告白しており、イースターだと喜び合って祝い、その日を守っていますが、実際に考えてみれば死んだ人がどのようによみがえるか、これは人の考えでは到底納得できないものです。 そのため、彼女たちの行動は当然のことながら理解できる行動です。 彼女たちの心配は非常に当然のことです。 しかし、私たちの信仰は私たちが作り出した信仰ではありません。 それは神様の全能と偉大な心で与えられた信仰です。 それで私たちの考えの限界を越える偉大な神様の御業を見る信仰です。 それでなされた偉大な神様の御業がまさに神様の御子が人間になり、死んだのによみがえれましたということです。

大きな心配をして墓の前に行った彼女たちは、驚くべき光景を目にします。 まず、石が転がっているのを目にしました。 そして、その中にいた青年が彼女たちに「驚くことはありません、あなたかたは十字架につけられたナザレ人イエスを探しているでしょう、あの方はよみがえられました。ここにはおられません」と話してくれました。 その青年が天使であるということは、私たちがあまりにも簡単に推測することができます

私たちはこの場面を通じて二つの恵みを語ることができます。

1)まずは神様の驚くべきみわざは、いつも私たちの考えの限界を越えて起きるということです。 先ほども言いましたが、彼女たちはイエス様がなさった復活が実際に起きるという考えを少しもしていませんでした。 彼女たちができる最善の考えは、イエス様の遺体が3日も経ったから臭いがするだろうから、速く香油を塗るために行かなくては、でした。 そして、その近くに行っても墓の前の大きな石を誰が転がしてくれるかです。 これは、私たちの考えと悩みが常に私たちの限界の中で起こることを示しています。 私たちが限界を持つのは当然のことです。 私たちは被造物であり、明日のことを知らず、また弱い肉体を持って心も体もけがをしやすいし、病気になるからです。 しかし、だからといってそれが私たちを不幸にすることはありません。 神様は、それが私たちの恵みになると教えてくださっています。

11.神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠をえられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。12.私は知った。人は生きている間に喜びしむほか、何も良いことがないのを。13.また、人がみな食べたりんだりして、すべての苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。14.私は、神がなさることはすべて、永遠にわらないことを知った。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。人が神の御前で恐れるようになるため、神はそのようにされたのだ。(伝道者の書 3:1114

当然のことです。 神様がなさっていることを知らないので、私たちは神様を恐る(畏敬する)ことができるのです。 そして、その方に私たちの人生を頼りに祈ることができるのです。

2)神様の驚くべきみわざは、常に私たちの絶望を超えて起こっています。

彼女たちはすでに15章で絶望を経験しました。 愛するイエス様が十字架で亡くなる絶望を目で直接見ました。 愛する人を失わなければならない絶望を経験しているのです。 考えてみれば、私たちの人生は残酷なほど絶望的な出来事の連続です。 努力と誠実が実を結ぶよりは失敗と挫折に戻ったり、切実に期待して希望したことが叶わなかったりする場合も多いです。 だからこそ与えられた人生を生きるということは、険しい道を歩いていくようなものです。 彼女たちのように絶望の中で墓を探す心情は、どんな気持ちでしょうか。それでもかかわらず、キリスト教信仰では私たちの絶望を越える驚くべき神のみわざが起きたりします。 思いもよらなかったことが、墓の中の死の場所で復活という願いに変わることとは同じです。

私は神学校に合格しても入学金がなくてあきらめなければならなかったことがありました。 そして5年が経ってから、その神学校に再び入学できるようになりました。 その時、神学校の入学をあきらめなければならなかった時にはどうして神様が私をこんな目にあわせられるのだろうか、私が神様に献身をして神学校に行くと言うのにそれも実力が足りなくて落ちたわけでもないのに、直接面接を受けた教授から電話も受けてお祝いも受けたのに、お金がなくて行けないのが有り得るのだろうか、という恨みと絶望がありました。 しかし時間が経ってその神学校を卒業して日本に宣教師として派遣をされて振り向いたらすべての過程は神様の驚くべき導きの恵みでした。

もし5年前に無事に入学していたら、たぶん、私はプラテリという日本宣教のための男性歌唱団に会えなかったと思います。 その時はプラテリ男性歌唱団が作られる前でしたからです。そうしたら日本の短期宣教旅行もなかっただろうし、一度も宣教ということを考えたことがない私としては韓国で他の道を歩んでいたでしょう

その時は絶望だったものがむしろ今は神様の恵みになりました。 そして、そんな瞬間がまさに今の私を存在させたのでした。

3) 復活されたイエス様が会ってくださった人々に対する話です。

今日は8節まで読みましたが、その後にある話は復活したイエス様が直接女性たちと弟子たちに会って下さって、彼らの絶望的で傷ついた心に触れて治して下さる話です。

まずはマグダラのマリアです。 彼女には、七つ悪霊に取り憑かれていた人生を送った絶望的な過去がありました。 そんな彼女をイエス様が悪霊を追いかけてくださって、新しい人生を生きられるようにしてくださいました。 しかし、イエス様の死は彼女には大きな絶望であり、イエス様の死体さえもないというので、より深い絶望が感じられたのでしょう。 しかし、彼女によみがえられたイエス様が直接現れました。 彼女はよみがえられたイエス様に直接会うことになりました。 それで彼女の絶望は喜びと希望になりました。 そして、そこで止まったのではなく、弟子たちにこの知らせを伝えるようになるお願いも受けます。 絶望が喜びになり、そして使命になるのです。

マリアと他の女性たちが伝えたイエス様の復活の知らせを弟子たちは信じることができませんでした。 そんな弟子たちのためにイエス様はガリラヤ湖まで現れ、弟子たちに会って下さいました。 弟子たちはイエス様に再び会えて嬉しくて感激したことでしょう。 しかし、弟子たちは復活されたイエス様に会うのが恥ずかしくなかったのでしょうか。 みんな怖がって逃げ出したし、特にペテロはイエス様を3度も知らないと否定したからです。それでもイエス様はそれまで抱いて回復させてくださいました。 初めてイエス様に会った事件を記憶するように船から網を下ろすように言って、多くの魚が捕まるようにしました。そして、焚火を起こし、魚を焼きながら食事を一緒にされました。過ぎ越しの最後の晩餐と大祭司のにわのたき火を思い出させました。 そして、再び私を愛しているのかとペテロに尋ねます。 大祭司のにわの中でペテロが3度も否定したように3度も尋ねました。 以前の情熱と熱心さに満ちた感情的な言葉よりは、自分の限界と足りないことを認める告白をしました。 しかし、イエス様は過ちを問い、責任を負わず、むしろ彼に再びイエス様のために働くように使命を与えました。

復活されたイエス様に会うのは絶望を越える喜びと回復があることです。 そして復活されたイエス様に会うことは回復を越えて使命に耐えられるようにする人生の方向を持たせます。 マグダラのマリアも弟子たちも、そして彼らの教えと使命を受け継いできた教会と今の教会もそうです。 そして、その教会の中で信仰を守って生きていく私たち皆も、その日、復活のイエス様に会った彼女たちと弟子たちと同じ希望と使命ある人生を生きていきます。

神様が再び来られる日まで、私たちの人生の中で消えずに持続していくことを心から祈ります。

Since 2024/3/25 Updated 2024/3/30