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聖書
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使徒の働き 9章 1-5節
9:1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、
9:2 ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3 ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
9:4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
9:5 彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
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説教 :
ファン・グオホア 師

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当日の説教 |
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説教要旨
当時サウロは、イエス・キリストを信じる者を誰でも捕まえて縛りエルサレムに送る権力を得ていました。9章1-2節に、サウロは全ての人を縛り上げてとあります。サウロは当時自分が信じている信仰、教派にとても熱心でした。しかもキリスト者が捕まり抑圧されるのを見ることを喜んでいました。そればかりでなく、殺害されることも。7章58-60節には、自分達の上着をサウロの足下に置いたとあります。ステパノが殉教するとサウロは喜びました。
私たちは、もし当時サウロのこのような態度を見たら、どうでしょうか。主にこのように祈らないでしょうか。「主よ、こんな人をこの世に生かしておかないでください。こんな人に悔い改めの機会を与えないでください。こんな人は地獄に行くべきです。」
以前私の故郷の方でも多くの場所で、教会の中に同じような状況が起きました。教会が迫害に遭い、教会の多くの物が持ち去られました。献金箱や聖書もです。それに、教会の主なリーダーや同僚たちが拘束されたり、罰金を支払わされました。これらのことが起きるのを見て、時には彼らを憎むのを押さえられませんでした。彼らは、主の救いに全くふさわしくない、救われるに値しない、聖書のあのサウロのように。あんな苦しみを教会に与えた彼は、主キリストの裁きを受けるべきだ。
しかし、9章3-6節でイエスがサウロに現れたのは、彼を裁くためではなく、むしろ救うためでした。
イエスは「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」と言われました。私たちはとてもハッキリと知っていますが、サウロは主イエス・キリストを信じている人を捕まえ、彼らを縛り上げ、エルサレムに連れて行き、大祭司、会堂に引き渡そうとしていました。イエスはここで非常に重要な真理をハッキリと説明しています。当時サウロがキリスト者を迫害していたことは、すなわち主キリストを迫害しているのだと。彼が迫害したのは人ではなく神だと。イエスはここで、私たちは自分自身に属する者ではなく、神に属する者、私たちは神の体の一部分であることを説明しておられます。
ヨハネの福音書15章には葡萄の木のたとえがあります。主は葡萄の木、私たちは枝です。枝は葡萄の木につながっていることが必要です。私たちは主の中に、主は私たちの生命の中におられます。イエスはサウロに、あなたはわたしを迫害していると言われました。イエスはサウロに話すと同時に、私たちにも私たち自身の主にある身分をしっかりと知っているように求めておられます。私たちは主に属する者、この世界に属する者ではありません。また、何かの権力や、誰かに属する者でもありません。
反対に、心から喜んでイエスのために何かをする時、イエスはこう言われます。あなたが喜んで、この小さい者の一人に一杯の水を飲ませてあげるなら、必ず褒美をもらえます。なぜでしょうか。イエスは、あなたがこの小さい者の一人にしたのは、すなわち私にしたことなのだと言われます。主に感謝します。主は私たちをこんなにも大切に思って下さっているのです。
当時イエスは、あなたはなぜわたしを迫害するのか、あなたが迫害しているのはイエスを信じている人々ではなく、わたし自身だと言われました。もし私たちの内に、キリストの十字架の愛がなく、だれかを傷つけるなら、それはイエス・キリストを攻撃し傷つけていることになると、この原則は私たちに語っています。ですから聖書は私たちにこう語っています。心にキリスト・イエスの愛をもって他の人を愛し、助けるようにと。
イエスはサウロに、あなたはなぜわたしを迫害するのかと言われました。サウロが迫害していたのはイエス・キリストを信じる人々でした。当時サウロは自分がしていることは全て正しいと思っていました。しかも非常に熱心にこれらのことを行っていたのです。
時には私たちもサウロと同じようではないでしょうか。努力して誰かのために、或いは何かをする。とても一生懸命それを行う。しかし神の目から見たならば、私たちのしたことの全ては、なんでもない。みなさんに、まじめに物事に取り組まないように、と言っているのではありません。私たちがすることの全ては、神の御心がどこにあるのか祈り、神に喜ばれ、神に覚えていただくことが必要です。もし、私たちのすることの全てが自分を取り巻くもの、自分中心であるなら、最後の結果は、神にわたしはあなたを知らないと言われてしまう、悲しい結末になります。
5節で、あなたはなぜわたしを迫害するのかとの、イエスの声を聞いたときのサウロの反応は「主よ、あなたはどなたですか」でした。これは、サウロがイエスを知らず、神を知らないことを表わしています。このお方がどのような神なのかということを、まったく知らなかったのです。しかも、今まで自分がしてきたことが、全て間違っていたということは、全く知りませんでした。ですから、イエスに向かって「あなたはどなたですか」と聞いたわけです。私たちの主、私たちの神はご自分がどのようなお方なのか、御心は何かを私たちに示すことをとても望んでおられます。他の聖書の箇所では、イエスは弟子たちに「あなたたちはわたしを誰だといいますか」と聞かれました。同じように、主はサウロにご自分がイエス・キリスト、神のひとり子、人類の救い主であることを知らせることを望んでおられました。サウロがしたことの全ては間違っていました。彼は、今、悔い改めて主に立ち返り、全てを変えられる必要があったのです。
Since 2025/6/27 Updated 2025/7/7
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