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2025年12月7日
主日礼拝
説教   「祈りが神の前に届く」

聖書
使徒の働き 10章 1-8節

10:1 さて、カイサリアにコルネリウスという名の人がいた。イタリア隊という部隊の百人隊長であった。
10:2 彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。
10:3 ある日の午後三時ごろ、彼は幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。その御使いは彼のところに来て、「コルネリウス」と呼びかけた。
10:4 彼は御使いを見つめていたが、恐ろしくなって言った。「主よ、何でしょうか。」すると御使いは言った。「あなたの祈りと施しは神の御前に上って、覚えられています。
10:5 さあ今、ヤッファに人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンという人を招きなさい。
10:6 その人は、シモンという皮なめし職人のところに泊まっています。その家は海辺にあります。」
10:7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリウスはしもべたちのうち二人と、彼の側近の部下のうち敬虔な兵士一人を呼び、
10:8 すべてのことを説明して、彼らをヤッファに遣わした。
説教 :
ファン・グオホア 師
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説教要旨


  祈りはとても重要です。私たちクリスチャンにとって、生命の一部であり欠けてはならないものが祈りです。クリスチャンの生活から祈りがなくなったら、その人の生命はカラカラに干からび、神との関係は引き裂かれてしまうでしょう。ですから神の子である私たちは、祈ることが必要です。同時に祈りはクリスチャンである私たち一人ひとりにとってチャレンジでもあります。もし祈っているのにチャレンジがなくなったら、その祈りには問題があるといえるでしょう。祈りは神の子一人ひとりにとって試練であり訓練でもあります。祈りには訓練と継続することが必要なのです。

  今日の箇所使徒1018節には、コルネリウスの祈りが書かれていますが、先ず、コルネリウスという人物について見てみましょう。身分は百人隊長であり、多くの人を管理する立場にあり、すべきことも多く、忙しかったでしょう。また色々違った立場の人々に接することも多かったでしょう。しかし彼は、自分の身分によって他の人に圧力をかけたりせず、むしろ多くの貧しい人に施しをしたり、助けたりしていました。なぜ彼はこのように行ったのでしょうか。聖書には、彼は敬虔な人だと書いてあります。かれの敬虔さはどのようなところからわかるでしょうか。

  一、神を敬う人。彼は、家族全員とともに神を敬っていました。家族全員がイエスを信じるというのは、そんなに難しいことではないかもしれません。しかし、家族全員がイエスを信じ、しかも神を敬い、神を愛し、経験に日々を過ごすというのは簡単なことではありません。いやむしろ非常に難しいでしょう。

  旧約聖書にヨブ記があります。ヨブは非常に神を敬い、全ての悪から離れ、心がまっすぐな人でした。しかもいつも子どもたちのために生け贄を献げ祈り、彼らに神を敬うように、神に罪を犯さないように注意していました。しかし結果はどうでしたか。何が起きたでしょうか。敵に攻撃され、財産を持って行かれ、子どもたちは全員亡くなり、自分の体も全身悪性の腫物でおおわれ、妻にも恨まれました。彼の友人たちは、神を敬う人がこのような苦しい目に遭うのはなぜなのか理解できませんでした。しかしこれらの全てもヨブの神への信頼と神を敬う心を打ち負かすことはできなかったのです。その中でヨブは、「主は与え、主は取られる、主の御名はほむべきかな」と言ったのです。これがヨブの信仰でした。このような信仰はどこから来たのでしょうか。このような信仰は、どのようにして堅く打ち立てられたのでしょうか。これは彼が神を敬うことを抜きにしては考えられません。さらには彼が日々神の前に祈っていたことと密接にかかわっています。クリスチャンにとって、祈りはその生活の、信仰の、一部分なのです。コルネリウスも又このような人でした。

  102節に、コルネリウスはいつも祈っていたとあります。私たちの祈りは、たぶんすぐには成就しないでしょう。そんなとき、私たちはあきらめずに祈りつづけることができるでしょうか?これが非常に重要です。コルネリウスはいつも神に祈っていましたが。きっと私たちと同じように、すぐには神の答えをいただけなかったでしょう。しかし彼の神に対する態度は変化しませんでした。同じように主を愛し、神を敬っていました。いつも施しをし、誰かを助けていました。そんなある日、神の使いが彼に現れたのです。神が彼に向かって現れたのはいつでしょう。祈りの時にです。祈りの場所に来て、コルネリウスに現れ、話しかけたのです。ですから私たちも、祈りを一つの儀式のようにすることがないように気をつけましょう。これは、とても恐ろしいことです。神の子どもとして、私たちにとって祈りは非常に重要です。祈りは私たちが神を更に深く知るようにし、私たちと神との関係を築き上げます。神が私たちの家庭の主であることを祈る時、神は慰めと満足を受けてくださいます。

  二、神に祈る人。102節に、いつも神に祈っていたとありますが、聖書には旧約から新約まで私たちに多くの祈りの人の例が書かれています。パウロはテサロニケⅡ517節で絶えず祈りなさいと言っていますし、イエスは目を覚まして祈ることを教えられました。(マルコ1438) 私たちは、いつも祈っているだけでは十分ではないのです。絶えず祈ること、しかもイエスが教えられたように、目を覚まして祈ることが必要です。15分くらい目を覚ましていればいいのではなく、どんな場所でも、どんな時でも、一秒一秒の祈りの態度が目を覚ましているということです。全身全霊を神に向けて祈るのです。なぜなら、祈りの時に敵が私たちを攻めてくるからです。私たちの肉体は弱いものです。ですから、神に依り頼み、聖霊の助けをいただいて神に祈りましょう。こうしてこそ、神との素晴らしい関係を築き上げることができます。更に神を深く知り、神の御心を知り、神の御心に従って生きることができます。コルネリウスの主にある生命の現れは、神を敬い、神に近づき、いつも神に祈り、家に祭壇を築き、家族全員が神を敬うというものでした。このような信仰、かれの祈り、彼の行った全ては神の前に届き、神に覚えられ、神の使いが彼に現れ、彼の信仰の道を導き、次にすべきことをコルネリウスに教え、一歩一歩導きました。

私たちはどうでしょう。私たちの祈りはどうでしょうか。私たちの祈りは、神の御前に届いているでしょうか。神の示しと導きを受け取りましたか。お一人ひとりの祈りが主の御前に届きますように。私たちの家族、友人、隣人、全ての人が、主に喜ばれ、導きを受けることができますように。主の愛と救いを受けることができますように。

 

Since 2025/12/8 Updated 2025/12/9, 12/12