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2026年3月22日
主日礼拝
説教 「人の子は安息日の主です」

聖書
マタイの福音書12章1~15節

12:1 そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。
12:2 するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、
12:4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。
12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。
12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。
12:7 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。
12:8 人の子は安息日の主です。」
12:9 イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。
12:10 すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。
12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。
12:12 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」
12:13 それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。
12:14 パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。
12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。
説教 : 車 孝振
(チャ ヒョ ジン) 牧師
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当日の説教
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説教要旨


今日、私たちがともに読んだマタイの福音書12章には、イ
エス様とパリサイ人たちのあいだで起きた二つの出来事が
記されています。表面だけを見ると、安息日を守るか守ら
ないかという律法の議論のように思えます。しかし、この箇
所を深く読むと、それは単なる論争ではありません。イエス
さまがどの方であるか、そして神様が私たちに求めておられ
ることは何か、それが鮮明に浮かび上がってくる御言葉です。
1. 二つの出来事―パリサイ人の試みとイエス様の答え
1)安息日に麦畑で穂を摘んで食べた
最初の出来事です。安息日に、イエス様の弟子たちが麦
畑を通りながら、おなかがすいたので穂を摘んで食べました。
するとパリサイ人たちがすぐに問題にします。「ご覧なさい。
あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしてい
ます」(マタイ12:2)。彼らの目には、これは明らかな律
法違反でした。
しかしイエス様は逆に、こうおっしゃいます。「ダビデと供の者
たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、どのようにし
て、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べ
てはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないの
ですか」(マタイ12:3-4)。さらに続けます。「また、安息
日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、と
いうことを律法で読んだことがないのですか」(マタイ12:
5)。
そしてこの一言を加えられます。「『わたしが喜びとするのは
真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知って
の御ことばです。神さまは儀式や規則よりも真実の愛を求
めておられる、それが律法の本心だということを、イエス様は
はっきり示されました。
そして最後にこう宣言されます。「人の子は安息日の主で
す」(マタイ12:8)。これは単なる議論の締めくくりではあ
りません。イエス様ご自身がどの方であるかを明かされた宣
言です。
2)安息日に片手の萎えた人をいやされた
二つ目の出来事です。イエスさまは彼らの会堂に入って行
かれます。そこに片手の萎えた人がいました。人々はイエス
さまを訴えようと、「安息日に癒やすのは律法にかなってい
ますか」と問います(マタイ12:10)。
イエスさまは問い返されます。「あなたがたのうちのだれかが
羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、
それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。人間は羊よ
りはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことを
するのは律法にかなっています」(マタイ12:11-12)。
そしてその場でその人の手を回復させてくださいました。この
驚くべき奇跡を前に、人々はどう反応したでしょうか。感謝
も賛美もありませんでした。パリサイ人たちはむしろ、イエス
さまをどうやって殺すか相談し始めました。
二つの出来事を通して、私たちははっきり見えてきます。イ
エスさまとパリサイ人たちの目が、まったく違う方向を向いて
いるということです。
2. この出来事が私たちに示すもの
1)イエスさまとパリサイ人の目的がまったく違った
イエスさまの目は、人に向いていました。お腹をすかせた弟
子たち、手の萎えた人、その人の切実な状況。イエスさま
日を守っているか守っていないか、そのものさしで人を裁き、
断罪することが彼らの目的でした。彼らにとって、お腹をす
かせた弟子たちや病気の人は、助けるべき存在ではなく、
イエスさまを告発するための材料にすぎませんでした。
彼らの安息日を守る熱心は、最終的にどこへ向かったでし
ょうか。イエスさまを殺す相談へと行き着きました。規則を
守ろうとする熱心が、かえって殺人を計画する場へとつなが
ったのです。これは、律法の本質からはずれるとき、いかに
恐ろしい結果をもたらすかを示しています。
一方、イエスさまのあわれみはどこへ向かいましたか。病者
をいやし、空腹な人のために弁護し、ついには十字架で私
たち全員を生かすことへとつながりました。人に向けられた
目的は、いのちへと流れていくのです。
2)イエさまは律法を超えた愛で私たちを生かしてくださる
聖書を見ると、イエスさまは当時の宗教指導者たちが絶
対にしないようなことを、繰り返しなさっていました。断食を
されず、取税人や遊女たちと食事をされ、取税人の長で
あったザアカイの家にも入って行かれました。12年もの間、
血の病を患い、宗教的に「汚れた者」と断罪されていた女
性が自分の衣に触れることを許され、ツァラアトに冒された
人の体に手を触れ、亡くなった会堂司の12歳の娘の手を
取って「起きなさい」とおっしゃいました。
毎日の宗教的な熱心で自分を守り続けてきたパリサイ人
たちにとって、イエスさまのこういった姿は、衝撃そのものだっ
たでしょう。しかしイエスさまがなさったすべてのことには共通
点がありました。律法の手が届かないところにまで手を伸ば
して、人を生かされたということです。
パリサイ人たちは、律法が持つ限界の分しか知らず、その
中に込められた神さまの愛には関心がありませんでした。
見ました。
だから、安息日を「破られた」イエスさまは人々をいやし、あ
われみを注ぎ、平和をもたらし、ついには十字架で死なれ
ることによって、私たちを永遠に生かしてくださいました。しか
し命令と規則を守る熱心を持っていた彼らは、無実の人を
断罪し、落胆させ、挙げ句には誰かを殺そうと相談する冷
酷さをさらけ出しました。
3)それでもイエスさまは律法を捨てられない
多くの人が誤解することがあります。旧約の神さまは罰を与
える恐ろしい神で、新約のイエスさまは愛して受け入れてく
ださる方だ、という区別です。これは、聖書が教える真の教
えを知らない誤解です。
旧約の律法を見てください。レビ記には、刈り入れのとき、
畑の隅まで刈り尽くしてはならない、落ち穂を拾い集めて
はならないと書かれています。これは、貧しい人や寄留者、
鳥や野の獣への神さまの配慮が込められた命令です。
だからこそ、ダビデの曾祖母となるルツは、ボアズの畑で落
ち穂を拾って生計を立てることができ、その愛の律法の上
でボアズと出会い、ダビデの祖先となり、その系譜を通じて
イエスさまの祖先となりました。
また、収入の十分の一を神さまにささげよという命令には、
その十分の一が孤児ややもめ、そして地を割り当てられな
かったレビ部族のための神さまの心が込められていました。
預言者たちが神さまの御ことばを代言したとき、人々の十
分の一をとがめたのは、その目的から離れ、外側の形だけ
が残ってしまったからです。
このように律法は、本来、人を縛りつけ、守れなければ断
罪するための道具ではありませんでした。どのように神さまを
愛するか、どのように隣人を愛するか、そのために教えられ
いたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしな
は人そのものを見ておられました。
聖書の中には、神さまの愛の実践が命令と律法として数
た神さまの御心でした。しかし本質から離れた律法は、無
実の人を断罪し、低い立場の人を抑圧し、それを表面的
日間、世の中で労苦し、疲れ果てて生きてきた私たちが、
に守る者が宗教的に優位に立つための道具に成り下がっ
てしまいました。
だからイエスさまは、律法を破るように見える姿をあえて示
しながら、律法が本来私たちに与えようとしていた神さまの
愛を教えてくださいました。イエスさまは律法を廃するためで
はなく、律法を成就するために来られたのです。
3. 安息日の主であるイエスさま
イエスさまはご自身について二つのことを宣言されました。
「ここに宮よりも大いなるものがあります」(マタイ12:6)。
そして「人の子は安息日の主です」(マタイ12:8)。
宮よりも大いなる方は、宮の中で祭司たちが安息日に働く
ことを許可できます。切羽詰まったダビデに臨在のパンを与
えることも許可できます。
安息日の主である方は、人々に真の安息を与えるために、
6日働いて7日目は休むよう命じられました。そして真の安
息のために、病者にいやしを与え、飢えた者にあわれみを
注ぎ、善いことが実現されるようにしてくださいました。
イエスさまの十字架の苦しみは、律法を守る者たちの殺そ
うとする相談によって決定されました。しかし律法を超える
安息日の主であるイエスさまのあわれみが、その十字架の
苦しみを越えて、私たちを生かしてくださいました。
イエスさまの中で、イエスさまの教えを深く知れば知るほど、
その教えの本質が悟られます。そしてその悟りは、私たちの
心と魂を自由にします。断罪からの自由、恐れからの自由、
外見だけの信仰からの自由です。
4.それでは、私たちはどのように安息を守りながら信
仰生活を送ることができるでしょうか。
新約時代を生きる私たちにとって、安息日は日曜日となり
教会の礼拝を通して、聖徒との交わりを通して、慰めを受
け、新たな力を得る日です。
何より、この日はイエスさまの復活を記念して礼拝をささげ
る日です。世の中で経験した挫折と苦しみの闇が、復活さ
れたイエスさまを通して希望に変わり、喜びとなる日です。
墓を開いてよみがえられたあの方が、私たちの絶望をも打
ち破り、立ち上がらせてくださるということを、ともに宣言する
日です。
だから日曜日の礼拝を宗教的な義務としてではなく、自
発的な喜びとしてささげるならば、私たちの信仰と生活に
真の益となります。パリサイ人のように安息日を守っている
かどうかを争うのではなく、安息日の主であるイエスさまの
中で真の安息と回復を味わうこと、それが今日私たちに与
えられた安息の意味です。この礼拝を通して、その恵みが
私たち一人ひとりの歩みの中に続いていくことを願います。

Since 2026/3/22, Udated 2026/3/26